ローマで何人かの友人達と共にあげることが出来た、一番大事な贈り物を分かち合う
僕の人生の間にライブコンサートでの経験においてとてつもない変化があった。僕が子供だった頃、ほぼ全員がポピュラーなヒット曲を散りばめた新しい音楽を演奏するアーティストを聴きに行っていた。多くがそのアーティスト達が取り組んでいるか、ちょうど録音したばかりの曲で構成されたものだった。ライブショーは新曲に対する観客の反応をみる良い機会だった。
(しかし)最近の時代精神の中では、アーティストが知らない曲を演奏する時、多くの人がこの時間をお手洗いに行くのに使ってしまう。僕らの時間は知らないことを経験するには余りにも貴重になり過ぎたのだろうか?
昨日僕は、ミュージシャンのピーター・フランプトンのTVスペシャルを観た。彼の1976年のアルバム、"フランプトン・カムズ・アライヴ" は1800万枚以上売り上げてプラチナレコードとなった。それはライブアルバムで、それが演奏され、録音されるまで世界中の殆どがこれらの曲を聴いたことがないというものだった。 今日、そんな事は決して起こらない! だが、それはそこに集まった我々の耳をアーティストに貸す(与える)時間が、僕らがあげることが出来た一番大事な贈り物だった頃の話だ。
"フランプトン・カムズ・アライヴ" はアメリカだけで1800万枚売れた!
僕は、新しい曲をジミ・ヘンドリクスがライブで演奏するのを見た
僕は、新しい曲をスライ&ザ・ファミリー・ストーンがライブで演奏するのを見た
僕は、新しい曲をジャクソン5がライブで演奏するのを見た
僕は、新しい曲をマハヴィシュヌ・オーケストラがライブで演奏するのを見た
僕は、新しい曲をパーラメント・ファンカデリックがライブで演奏するのを見た
僕は、新しい曲をマイルス・デイヴィスがライブで演奏するのを見た
僕は、新しい曲をストゥージスがライブで演奏するのを見た
CHICの初期のツアーで - 僕らの音楽の殆どが知られておらず、それは僕らがあげることが出来た一番大事な贈り物だった。
去年のCHIC Organization日本(ツアー)での曲目リスト
僕は2週間しない内にやってくるオーストラリアでのショーの為の曲目リストをまとめている。僕は数曲加えることを考えている。何故ならそれらは地球の反対側(であるその地)で何週もナンバーワンシングルとなっているからだ。
世界中で、殆どの人々は僕が関与してきた音楽が何かを知らずにいる。多分、このツアーが ”僕を知る” ツアーとして役立つだろう。だって、これは僕の初めてのオーストラリアでの演奏だからだ。
僕を知る一番の方法は僕の自叙伝 Le Freakだし、僕は本とコンサートツアーの組み合わせることを考えている。
僕はプロモーターと出版社に手紙を書くつもりだ。もし彼らが先入観に囚われず、僕がどうにかして、これを僅かな時間で上手くやり遂げることが出来るか、という事を確かめたいのだ。
CHIC “Le Freak(邦題: おしゃれフリーク)”-オーストラリアで5週間第1位
ダイアナ·ロス”Upside Down”-オーストラリアで4週間第1位
INXS “Original Sin”-オーストラリアで2週間第1位
マドンナ”Like A Virgin”-オーストラリアで5週間第1位
マドンナ - “ Angel/ Into The Groove”- オーストラリアで4週間第1位(※ナイルは"Angel" をプロデュースした)
デヴィッド·ボウイ/ミック·ジャガー” Dancin in the Streets -オーストラリアで2週間第1位
一緒に演奏するCHIC Organizationとシール - 僕達の最新のツアー
ジャマール・ジョゼフと「Panther Baby(パンサーの申し子)」のイベント
僕はハーレムで昨夜まれにみる夜を経験した。僕の生涯にわたる友人、教授のジャマール・ジョゼフが本の発表イベントを行い、彼の自叙伝 "Panther Baby(パンサーの申し子)" の為の講演をしたのだ。ジャマールと僕はふたりとも同じ時期にブラック・パンサー・パーティー・フォー・セルフ・ディフェンス(*1)のハーレム支部にいた。
(*1-ブラック・パンサー党は当初この名で結成されている)
ジャマールはアフィーニ・シャクール(トゥパックの母)や他の19人と共に、有名な「パンサー21裁判」(*2)に一枚かんでいた。長期にわたる "21" の裁判の後、全員が無罪となった。
(*2-1970年、21人のブラック・パンサー党員がNYで警官の殺害とビルの爆破を企てたとして逮捕された事件とその裁判をさす)
ジャマールはアカデミー賞のノミネート経歴をもち、現在はほまれ高いコロンビア大学の映画学校の主席教授だ。彼はまた、熟練した劇作家、詩人、スポークン・ワード(詩の朗読)の芸術家でもあり、IMPACTレパートリー・シアター(*3)の創始者でもある。
(*3-Inspiration,Motivation,Preparation,Activism,Commitment,Teamworkを理想に掲げる芸術集団。十代の若者の芸術活動をサポートしている。1997年設立)
彼のイベントで、僕は長い間会ってきたよりも多く、僕の子供の頃からの知り合いに会った。キャサリン・クリーヴァー;ブラック・パンサー党の元通信相であり、党の中で最も高位の女性で、現在は法学教授で作家。フェリペ・ルチアーノ;Last Poetsの伝説的メンバーであり、Young Lords(パンサーのラテン系同志)の元会長、作家、そして二度のエミー賞受賞のネットワークキャスター。レジー・ルーカス;革新的ギタリスト、ソングライター、レコード・プロデューサー、マイルス・デイヴィス・バンドの元メンバー、学生時代の友人、マドンナのファースト・アルバムの共同プロデューサー。
そこは僕がパンサーの申し子だった16歳の頃から知っている人々で一杯だった。
ヴァーモントのバーリントンにあるヴァーモント大学の芝生の上で「ブラック・パンサー21」の裁判事件について演説するジャマール・ジョゼフ - 1971年
トゥパック&アフィーニ・シャクール
キャサリン・クリーヴァー;ブラック・パンサー党の元通信相
右側フェリペ・ルチアーノ(右) - Young Lordsの会長として
ジャマール・ジョゼフ- 彼が受賞したIMPACTレパートリー・シアターのパフォーマンス中のひとこま
昔々のレジー・ルーカス
僕がパンサーの申し子だった16歳の頃から知っている人々で一杯の部屋
この撮影の1年後、僕は16歳になり、ブラック・パンサー党に加わった
マドンナのシングル曲 "ボーダーライン" - 作曲とプロデュースはレジー・ルーカス
二度のエミー賞受賞歴をもつジャーナリスト、フェリペ・ルチアーノと僕、"パンサーの申し子" イベントにて
1984年のデモより
僕は僕の古いソロアルバムの、作詞作曲をしたデモを一日中聴いて過ごした。僕は危うく打ちのめされそうになるとても沢山のデモを持っている。ずっと昔、僕はどんな曲をアルバムに入れ込むかを決める前、大量のアイデアを録音したものだった。
僕はバーナード・エドワーズが演奏している曲を見つけた。僕はこれらの曲を今日まで忘れていた。僕はアルファ・アンダーソンがバックシンガーとして歌っているデモも見つけた。
僕はバック・ヴォーカルを大きなグループとしてステレオ音声の一組にして録音していたが、それでも僕はアルファの独特な声、ルーサー・ヴァンドロスが「泣いている」と表わした響きを聴き取る事が出来る。バック・ヴォーカルのオーヴァーダブ・パートを空気の様に聞かせようと僕が使う(ミックス上の)テクニックで、(アルファのそれは)殆ど子供のような声だ。アルファは今まで僕が一緒に仕事をして来た中で最高のクライヤー(泣き歌いの名手)だ。
1984年の別の一組のデモ
非凡なベース奏者、バーナード・エドワーズ、そして僕-80年代
僕らの80年代のツアーブックの中のアルファ・アンダーソン
僕は危うく打ちのめされそうになるとても沢山のデモを持っている
アルファと演奏する僕-今まで僕が一緒に仕事をして来た中で最高のクライヤー(泣き歌いの名手)
昨夜、僕は僕の自叙伝Le Freakの朗読に招待された
僕は昨夜の殆どをニュー・ヨーク、マリタイム・ホテルのヒロ・ダンスホールで過ごした。僕は親愛なる友人、そして一流の作家であるアンソニー・ヘイデン=ゲストの支援の為に、僕の自叙伝Le Freakの朗読に招待された。
作家であるアンソニーは、朗読を娯楽として見ている。彼が読む時がそうだ! 彼は素晴らしい周知の朗読家であり、彼は秘密兵器 - 英国のアクセントを持っていた。僕はと言えば、グリニッジ・ヴィレッジの中心にあるその会場から、数ブロックだけしか離れていないところで育った。
僕の自叙伝Le Freakを朗読する代わりに、僕はそれを音楽で強調しながらまとめた。僕は昨夜、Le Freakの聴覚的要約をしたのだ。
受賞作家、アンソニー・ヘイデン=ゲスト
デビー・ハリーがアンソニーの支援の為に姿を現した
僕はLe Freakを音楽で強調しながらまとめた
僕は昨夜、Le Freakの聴覚的要約をした
アンソニーを支援する為姿を見せたアーティスト達
僕は昨夜の殆どをニュー・ヨーク、マリタイム・ホテルのヒロ・ダンスホールで過ごした
僕の仲間の他のアーティスト達が姿を見せる前のヒロ・ダンスホールの中心の場所
僕はほぼ40時間ぶっ続けでレコーディングをしていた
自分でも信じられないが、僕はほぼ40時間ぶっ続けでレコーディングをしていた。昨日僕は午後1時頃に2時間程眠りに落ちたが、それだけだった。僕はとてもインスピレーションを受けた。君に明日詳細な報告をしよう。僕がただ言えるのは、何かファンキーなことが起ころうとしているという事だ。
僕はこれを少しばかり使った
そしてこれを少しばかり使った
これを幾つか付け加えた
そしてこのバッドボーイもちょっと使った!僕が持っている最高のレスポールの一つ
ル・クリブでリッチ・ヒルトンと僕。僕は音楽をやっている時は天国にも昇るような気持ちだ
スタジオの北側の壁。(右側の)ディアンジェリコ(・ギター)のポスターを見つめる以上にインスピレーションが溢れる事は他に無い
CHICのライブショーの働き者を弾く僕 - 僕のプレキシグラスギターマン
僕のバンド、CHICはパワー・ステーションというスタジオととても近しく関わっている。なぜなら、僕らはそこでアルバムを録音した最初のアーティストなのだ。その上、僕らは全てのCHICのアルバムをそこで録音した。だが、僕らの最初のシングル "ダンス・ダンス・ダンス" はジミ・ヘンドリックスが建てたスタジオであるエレクトリック・レディ・スタジオで録音された。
僕はそこでINXS、ホール&オーツ、ディアンジェロ、クエストラブそして他 の沢山の人たちと仕事をした。だから、エレクトリック・レディに戻ることは自然に感じる。また、CHICのライブショーの働き者、僕のプレキシグラスギターマンでレコーディングするのもとても自然だと感じる。
INXS
ディアンジェロ
プレキシグラスギターマンと共にエレクトリック・レディへの僕の帰還
僕のプレキシグラスギターマンを弾く、僕の人生で最も素晴らしい日々の一つ
僕らの最初のシングル "ダンス・ダンス・ダンス (Yowsah, Yowsah, Yowsah)"
僕のプレキシグラスギターマンで(壁の)エレクトリック・レディを引き剥がす
僕のプレキシグラスギターマンの帰還でファンクは健在だった
正式な引退の撤回と、ツアーへの復活-僕のプレキシグラスギターマン
二日前、僕はエレクトリック・レディ・スタジオでレコーディングしていた
二日前、僕はエレクトリック・レディ・スタジオでレコーディングしていた。家に帰る途中、通勤列車がトンネルの中で立ち往生した。僕は世界から締め出されたように感じた。なぜなら、僕は電話とWiFiの圏外にいたからだ。僕は、僕らが避難してねずみのはびこる通路を歩かなくてはいけないのかと思った。
暫くして、その列車はニューヨークへ戻ることが出来た。全乗客が代替列車に乗り、僕の旅は改めて始まった。その時点で僕はとても疲れていて、寝過ごしてしまった。僕は降りる駅を乗り過ごしてしまい、僕の(住む)街へ帰る為タクシーを拾わなくてはいけなかった。運転手に支払おうとした時、僕はその予想していなかった旅に足りるお金を持っていなかった。
その運転手は僕をATMに連れていき、そして僕の車に戻った。そして、僕はようやく家までの残りの道を運転した。僕はインターネットに接続し、衝撃的なニュース速報の詳細を見始めた。上の出来事はホイットニー・ヒューストン(安らかに眠れ)の物語が発表されている間にすべて起こったのだ。
通勤列車がトンネルの中で立ち往生した
僕は、僕らが避難してねずみのはびこる通路を歩かなくてはいけないのかと思った
僕は寝過ごしてしまい、僕のコネティカットのウエストポートの街までタクシーで帰らなくてはならなかった
ホイットニー・ヒューストンのニュースが発表されていた
ホイットニー・ヒューストンのニュースが発表されていた
ホイットニー・ヒューストンのニュースが発表されていた
ホイットニー・ヒューストンのニュースが発表されていた
ホイットニー・ヒューストン - 神が与えた声
比類のない仲間に僕の最も心からの哀悼の意を
ホイットニー・ヒューストン...
アイデアのほとんどを作っていた80年代の僕のアパートでの僕
僕は昨日殆どオフラインで過ごしていた。というのも、僕は80年代の膨大な量の未発表テープを聴く事に没頭していたからだ。僕はナイル・ロジャース制作のテープで一杯になった9つの箱を持っている。
大体僕は数々の別のプロジェクトを(並行で)手掛けている。同じ名前の曲が沢山あるが、それらは別の曲だ。僕はアイデアから始めて、基礎となるタイトルをその曲につける。そして、その工程の最後までに、それはとても音楽的に別の曲となるのだ。
幾つかの曲で、僕はバーナード・エドワーズと演奏した。全てのこの音源の発見での素晴らしいことは、これで僕が行った膨大な量のレコーディングが発見されたという事だ。僕は基本的に毎日スタジオに行ったものだった。
次の数カ月で、僕はこの中の幾つかのプロジェクトを終わらせて発表するつもりだ。何故なら、これらの曲の幾つかはどうしようもなくファンキーだからだ。
85年、ライヴ・エイドの数カ月前の僕
80年代、パワー・ステーション(・スタジオ)での僕とバーナード・エドワーズ
映画「アルファベット・シティ」用の曲のラフ・ミックス、80年代の未発表のもの
80年代の未発表のマスターテープ
フォーンジー・ソーントンの(未発表)アルバムからの、80年代の未発表曲のマスター(テープ)
80年代「アルファベット・シティ」のサウンドトラック、未発表の全てのソニーデジタルマルチトラック
CHIC Organizationの80年代未発表の二曲のアナログマルチトラック
これらは80年代のものの未発表でどうしようもなくファンキーなデモ