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六十歳の誕生日を、僕は古い友達の結婚式に出席する為にロンドンへ向かっていた機内で迎えた。僕の(六十歳という)記念碑的な誕生日に、誰も機上の僕と出会えなかったので、何人かの近しい友人たちがこんな大きな作業に乗ってくれたんだ。(訳註:embarkは「計画に乗る」と「飛行機に搭乗する」を掛けている)
彼らは世界中から「ハッピー・バースデイ」を送ってきてくれたよ。ポップ・スターからだけでなく、僕の人生に於ける全てのエリアの友人たちだ – twitterやfacebookでの友人も。
動画のクリップはまだ届いている途中で、僕のクルーがそれをひとまとめにした長さのヴィディオにしている所さ。このブログでは、およそ一年半前に進行性の癌になってからの僕の日々のアドヴェンチャーを取り上げているのが常だけれど、- かといって僕の人生に於ける愛と前向きな気持ちは双方向(僕からみんなへ、そしてみんなから僕へも)に流れているから、そのいくつかをシェアしたいんだ。
願わくば、僕はこの一連の動画(のもたらしてくれる幸せ)を覆してしまうような健康問題がこの先もなければと思う。僕は出来るだけたくさんの動画を流すよ。何故って彼らはハートウォーミングでファニー、そしてエンタテイニングだ(面白い)からね。僕は彼らと彼らのペット達に心から感謝するよ。僕は今もなおフリーク・アウト中さ(I’m Still Freaking Out)。
Bryan Ferry
Steve Vai
Daft Punk
John Taylor (Duran Duran)
Dimitri from Paris
The B-52's
Paul Simon
Quincy Jones
Steven Van Zandt
XL Video
Narada Michael Walden
Chris Cornell
Q-Tip
Brett Ratner
Adam Lambert
Sinbad
Jerry Greenberg
Slash
Chris Matthews
Jody Watley
Steve Winwood
Me & Mom
Simon Le Bon
Alison Moyet
Taylor Dayne
Montel Williams
Johnny Marr
Sting
André Leon Talley
Deepak Chopra
エレクトリック・レイディ・スタジオ前の僕、Paul McClean とリッチ・ヒルトンがガラスに映りこんでいるのはわかるよね
CHICのファースト・シングルは「ダンス・ダンス・ダンス」といって – グリーニッチ・ヴィレッジの西8番通りに在るエレクトリック・レイディ・スタジオで録られたんだ。ジミ・ヘンドリクスが建てたスタジオだよ。このスタジオは僕が育った地域の中心だった。子供の頃、エレクトリック・レイディ(の場所)はジェネレイションというナイトクラブだったんだ。
十六歳の頃、僕は法的に飲酒が認められる十八歳ではなかったけれどジェネレイションに行ったもんさ。ヴェトナム戦争中のアメリカの徴兵制のせいもあり、僕らに対する主な身分証明(年齢確認)の方法は徴兵カードによるものだったんだけど、それはシンプルな作りだったから高校の写真店で簡単に偽造できたんだよね。だから僕の友達はみんなそれを持っていたよ。多くの十六歳にみえる十八歳そしてその逆の連中もいたから、僕はどのクラブでも一度も追い出されなかったよ。僕は痩せてて若くみえたけど徴兵カードを持っていたからね。
ジェネレイションがエレクトリック・レイディになってから、僕はそこで多くのアーティストと仕事をしたよ:INXS、ホール&オーツ、CHIC、メイシー・グレイ、ディアンジェロ、フェミ・クティ、ロイ・ハーグローヴ、ダフト・パンクそれから音楽ガイド(本・資料)無しでは数えられない程の面々。
(という風に、)僕は今日、僕がプロのミュージシャンになってからの人、場所そしてものごとに関する長文のブログを書くことになると思っていた。何故なら僕は BBCラジオの Paul McClean とニュー・ヨークじゅうを歩いたからなんだ。でも書きすすめているうちに今日は僕の誕生日だという事に気付いたんだよ。
僕は十六歳(シックスティーン)の頃の話から今回のブログを始めた。そして今日、僕は六十歳(シックスティ)だ。人生を通して得たものに対して、正直に、僕は誕生日を生きて元気に迎えている事が本当にハッピー(Happy to be Alive on My Birthday)だよ。
僕らのファースト・シングル「ダンス・ダンス・ダンス」はエレクトリック・レイディ・スタジオで録音された
この、「折り畳まれると」クレジット・カードより小さくてちゃちな紙の文書が徴兵カードと呼ばれていて、偽造はたやすかった
フェラの曲をクウェストラヴ、ディアンジェロそしてフェミ・クティ(訳注:フェラの息子)と練習中、エレクトリック・レイディのラウンジにて
僕はポールと写真を撮ってからエレクトリック・レイディの中に迎えた(訳注:「撮る」「迎える」はどちらも “take”)
僕はポールにエレクトリック・レイディのレコーディングの逸話を山ほど話した
僕らがいた間、完全に極秘の中、エレクトリック・レイディで誰かが録音中だった – 僕はそれが誰かおおよそ分かっていたけどね
僕は(今日が)自分の誕生日だと気付いた - そこで誕生日関連の写真を探してみた - 去年、僕は初めてアイスクリームのバースデイ・ケーキを貰った
僕の誕生日のCHIC再結成、ポール・シャファー、ルーシ・マーティン、僕、アルファ・アンダースン、バナード・エドワーズそしてフォーンズィ・ソーントン(訳注:1989年の誕生パーティで急に行ったという久々のライヴ。これが切っ掛けとなり現在まで続く再結成が実現。ドラマーはアントン・フィグ)
(男性左から)ライオネル・リッチー、Esai Morales、ナイル、Russell Wong、Dustin Nguyen と、愛情をこめて「ナイリーズ(ナイルの)・エンジェルズ」と呼ばれた女の子たち、LAでの僕の誕生パーティ会場の外で(訳注:ライオネル、ナイル以外の男性三人はいずれも俳優/ナイリーズ・エンジェルズはTV「チャーリーズ・エンジェル」に引っ掛けて)
OK、認めよう、僕は今日、本当に高速でドライヴした。何故なら僕は誕生日を生きて元気に迎えている事が本当にハッピーだから
ザ・ロクシー・クラブが在った辺りへ向かう - 僕がマドンナと出会った場所
空模様は BBCラジオの Paul McClean と「惑星Cを歩く」のにパーフェクトだよ。雲も無く亜熱帯の様な暖かさ。普通は、僕は行き先を決めずにランダムに歩くんだ – だけど僕らは僕の自伝 “Le Freak” に登場する特定の場所をなぞっていった。僕はずっと本当にクレイジーな人生を過ごしてきた。僕がまだ生きているなんて奇跡だね。
僕は五歳前後で自意識に目覚めた。一番最初の記憶はロウワー・マンハッタンでのものだ。僕の両親は揃ってヘロイン依存症で家も常に転々としていたんだ。短期間、僕らはグリニッチ・ストリートの780番地に住んでいた。僕はあの伝説的なジャズ・ミュージシャン、セロニアス・モンクが僕の母のファッショナブルな毛皮のコートの一着を買いにやって来たのを覚えているよ。
僕はグリーニッチ・ヴィレッジやチャイナタウン、ロウワー・イースト・サイドに住んでいたことがあって、十六歳の時には地下鉄(の構内)で寝泊まりしていたよ。(その前は)カブ・スカウトやボーイ・スカウト、ボーイ・クラブ・オヴ・アメリカのメンバーだった(訳注:模範的なアメリカ少年だった)んだけど、ブラック・パンサー党ハーレム支部のロウワー・マンハッタン・セクションのサブリーダーにもなった。我々は西21番通りに在ったセクションのリーダーの両親のファッショナブルな別邸(タウンハウス)を本部にしていたんだ。
隣に住んでいたのはヒッチコックの『サイコ』で有名な俳優アンソニー・パーキンズと当時の彼の婚約者ベリー・ベレンスンで、後に彼女は僕のフォトグラファーになった。(でも)2001年の九月十一日、ワールド・トレイド・センターに突っ込んだ一機目の飛行機に乗り合わせて悲劇的な最期を迎えたんだ。
そんな(西)21番通りの別邸から数ブロックも行かない場所で、僕はやがてデイヴィッド・ボウイーやマドンナと初めて会うことになるんだ – ボウイーとは25番通りのコンティネンタルというナイトクラブで、そしてマドンナとは18番通りのザ・ロクシーというクラブで。僕らは一緒にミュージック・ヒストリーを作ったんだよ(We'd Make Music History Together)。(ウォーキングは更に続く)
セロニアス・モンク、タイム誌の表紙
散歩中、僕らはこのラヴリーな女性 Alexa と出会った。彼女は The Lower Eastside Girls Club はまだ同じ所に在ると教えてくれた
僕が所属していたブラック・パンサー党ハーレム支部のロウワー・マンハッタン・セクション(本部)は(西)21番通りのタウンハウスに在った
在りし日のベリー・ベレンスンとトニー(アンソニー)・パーキンズ
ナイル・ロジャーズ、ベリー・ベレンスン撮影
ナイル・ロジャーズ制作の「モダーン・ラヴ」を歌うデイヴィッド・ボウイー
マドンナのアルバム『ライク・ア・ヴァージン』は彼女最大の売り上げを記録
この数日の間、僕は惑星CをBBCラジオの Paul McClean と歩いている
この数日の間、僕は「惑星C」をBBCラジオの Paul McClean と「歩いて」いるんだ。僕の万屋アシスタントであるリッチ・ヒルトンも一緒にね。「惑星C」というのは癌にやられてからの僕の人生を表すのに自ら作った造語だ。歩くことは自分でコントロールできるセラピーのメイン部分なんだ。歩くことは身体にも心にも良いよね。全身のフィットネスを手助けしてくれるし、僕が自分自身を保つ為の、一日の中でとても平和なひとときでもある。ウォーキングの間、僕は決して音楽プレイヤーを携帯しないんだ、何故って音楽はいつも僕の頭の中で鳴っているからさ – それらの音楽は散歩中に遭遇する光景や音にインスパイアされて(選ばれて)いるよ。
二十一ヶ月の中で、今回が他の誰かと歩くのは僅かに二回目(※)となる。Paul McClean は僕の自伝 "Le Freak" を読んでくれて、ベルファストで僕にインタヴューをした人物。彼は僕のフリーキーなこれまでの人生の場面場面を、そして現在進行中の(僕の人生という物語の)章を見たがったんだ。歩き始める前に僕は彼にこう言ったよ、「約束するけど、君が僕の見聞きする全ての事を捉えるのは不可能だからね。何故って僕にはニュー・ヨーク市のどの通りに関してもロックンロールなストーリーがあるからだよ」とね。(※)訳註:「ウォーキングを始めて」=「癌治療を始めて」となる。一回目の一人ではないウォーキングは日本の WOWOWスタッフ撮影隊が同行した昨年夏のものと思われる
僕らは125番通り - アポロ・シアターのある通りから歩き始めた。そこのハウス・バンドのメンバーだった七十年代に、僕はリストが尽きない程のヘヴィー級の面々のバックを務めたんだ:パーラメント=ファンカデリック、ベティ・ライト、アリーサ・フランクリンそしてスクリーミング・ジェイ・ホーキンズはそのリストの一部さ。続いて僕らは東へ向かった。すると僕は突然、その向かいのランドール島でジミ・ヘンドリクスが演奏したのを最後に観たのを思い出したんだ。そして僕らは125番通りと 7thアヴェニューが交差している場所にあるクリントン(元)大統領の事務所にさしかかり、一時間ぐらいの差でポール・サイモンとすれ違いだったと聞かされたよ。ポールと僕は何年も前から友達で、何度も共演しているんだ。
僕らはその角を曲がり、旧ブラック・パンサー党ハーレム支部が在った場所へと 7thアベニューを進んだんだ。その途中で僕は警官に名指しで歓迎されて握手をし、音楽の話をした。六十年代にさかのぼって、僕がプラック・パンサー(党員)だった時、僕はその時も警察機動隊、略してTPFと呼ばれる警官(隊員)に「歓迎された」もんさ。ブラック・パンサーの事務所は解散(閉鎖)し、今は美容院になっているんだ。(続く:BBCと共に惑星Cを行く[Walking on Planet C With the BBC])
彼は僕のフリーキーなこれまでの人生の場面場面を、そして現在進行中の(僕の人生という物語の)章を見たがった
僕らはアポロ・シアターのある125番通りから歩き始めた
僕はアポロでベティ・ライトとギグをした
僕は昔スクリーミング・ジェイ(・ホーキンズ)とギグをした
僕はアポロでファンカデリックとジャムった
ジミ・ヘンドリクス - ランドール島での彼の演奏を観たのは彼の死の数ヶ月前の事だった
ハーレムでのビル・クリントン大統領(当時)
ポール・サイモンと僕、僕の(ウィー・アー・ファミリー)基金ガーラ・コンサートで演奏中
アカデミー賞ノミネイト歴をもつ映画監督/作家のジャマール・ジョゼフ、十六歳、ブラック・パンサー党支部の事務所前にて
僕はハーレムで警官に名指しで歓迎されて握手をし、音楽の話をした
警官に「歓迎」された - 僕は十六歳、向こうから五人目の奴 - メタル・フレイムの眼鏡を鼻に乗せている - ジャマールは収監中 - パンサー21(訳註:1969年の四月二日に起きた事件)
昔ブラック・パンサー支部があった所は現在美容院になっている
僕はビシッとキメたダンス・ミュージックを僕とパフォームするべく何人かの友達を招集した
2012年の七月十三日、僕は僕と共に何人かの友達をスイスのモントルーに招待(招集)して、ビシッとキメたダンス・ミュージック(Tight A$$ Dance Music)を演奏したんだ。
以下のビシッとキマったフォトは Alexandre Guidetti 撮影のもの
朝の僕
ザ・ヒットメイカー(訳註:ナイル・ロジャーズ自身が命名した愛機)
Scarlett Etienne
Johnny Marr
DJ中の Ultra Nate
CHICの Don Harris と Bill Holloman
Alison Moyet
CHICの Selan
La Rouxの Elly Jackson
CHICの Ralph Rolle
Mark Ronson
CHICの Kimberly Davis
Folami
Taylor Dayne
CHICのビシッとキメたダンス・ミュージックで舞台上のみんながパーティーしているところ
我が友、驚異的なギターリスト、スティーヴィー・レイ・ヴォーン
七十年代と八十年代を振り返ると、ジェット機で飛び回る様に世界中でパーティーが続けられていたよ。それは大規模なクラブと向こう見ずな楽天主義、そしてヒュー・へフナー(※1)のプレイボーイ・マンション(※2)の時代で、最先端で楽しかった。でもそんな日々も今は昔、航空保安官、靴や下着に爆弾を隠した爆弾犯、TSA(運輸保安庁)などが登場する以前の無垢な日々だね(※3)。
あれから僕は何百マイルも飛行機で旅をしてきて、航空会社の社員の中には一生の友と呼べる仲になった人も居るよ。その一人がデルタ航空の Scott Roper 機長。彼は音楽が大好きでギターも弾く。僕らが会ったその日、彼は僕がデイヴィッド・ボウイーの『レッツ・ダンス』やザ・ヴォーン・ブラザーズの『ファミリー・スタイル』をプロデュースした奴だという事を知っていたんだ。
僕はもう何年も前から Scott を知っているけど、昨日彼が電話をしてきてこう言ったんだ「ヘイ、ナイル、僕は We Are Family Foundation に僕の持っているスティーヴィー・レイ・ヴォーン・モデルのギターを寄付したいんだ。バディ・ガイのサイン付きで、彼は 『(このギターの色の)仕上げは俺が買ったやつより良いからクリア・テープの所にサインをさせてくれ』 って言ったんだ」とね。
僕は吹っ飛ばされた気持ちになり、彼には感謝してもしきれなくない。僕はスコットがこのギターを愛していて、以下の写真からは、それがまるで SRV自身のギター・コレクション(SRV #Guitar Porn)みたいだとしか言えないよ。(※4)
※:訳註
(1)米本国版「プレイボーイ」誌創業者/編集長
(2)ヘフナー氏の自宅。正妻や多数のプレイメイト(プレイボーイ誌のセンターフォールド頁を飾ったモデル)と同居しパーティー三昧でった事で知られる
(3)近年のテロ対策としての色々を指す。私服の保安官が同乗する様になり、セキュリティー・チェック時に一般乗客へも靴を脱いでの検査が行われる様になった。TSAは9/11後に設立された公共移動の安全を管理する機関。
(4)それぐらい楽器の保管状態が良いという意味か?
七十年代を振り返ると、ジェット機で飛び回る様に世界中でパーティーが続けられていた - これはヒュー・へフナー所有の「ザ・ビッグ・バニー」と呼ばれた自家用ジェット機
デルタ航空の Scott Roper 機長は音楽が大好きでギターも弾く
スティーヴィー・レイと奥はジミー・ヴォーン、僕らが『ファミリー・スタイル』を録音していたとき
ザ・ヴォーン・ブラザーズと『ファミリー・スタイル』をレコーディング
デイヴィッド(デビッド)・ボウイー、スティーヴィー・レイ・ヴォーンと僕
スコットのSRVモデルのストラトキャスター。バディ・ガイのサイン付きで、彼は『(このギターの色の)仕上げは俺が買ったやつより良いからクリア・テープの所にサインをさせてくれ』と(スコットに)言った
僕はスコットがこのギターを愛していて、以下の写真からは、それがまるで SRV自身のギター・コレクション(SRV #Guitar Porn)みたいだとしか言えない
僕、ザ・ヴォーン・ブラザーズ『ファミリー・スタイル』の時に金メッキ仕上げのストラトキャスターを弾いている
ザ・ヴォーン・ブラザーズのトゥアー・シャツ(訳註:アルバムの完成直後にスティーヴィー・レイが事故死しトゥアーは行われなかったので、タグを持ち未使用を強調しているのだと思われる)
ザ・ヴォーン・ブラザーズのギター庫の一部
引き続きザ・ヴォーン・ブラザーズのギター庫の一部
Dawn Ciolfi と Scott Roper、デルタ航空JFK空港にて
スティーヴィー・レイ・ヴォーンが参加している僕のプラチナ・アルバムの中の何枚か - 『レッツ・ダンス』と『ファミリー・スタイル』
夏は正式に(本格的に)終わりを告げ、いま我々アメリカ人は仕事に戻る
夏は正式に(本格的に)終わりを告げ、いま我々アメリカ人は仕事に戻るところだ。(でも)今までの僕の人生のどの夏よりも僕はこの夏ハードに働いたよ - 各種イヴェント期間の書き込みをしてある以外、カレンダーは僕にとってあまり意味を持たなかったほどさ。僕の人生は終わりのない旅、迷路、トンネル、窓そしてドアを通る、しかもそのどの先にも何があるのかはわからない旅なんだ。
今年の夏、僕は数え切れない程のショウをし、一連のレコードでギターを弾き、数多くの曲を書き、何十ものブログを投稿し、相当数の本や各種団体のイヴェントで本について語り、新聞に記事を数本執筆し、何千ものスナップ写真の撮影をしたよ。僕はいつもハードに仕事をこなしているけど、約二年前に進行性の癌にかかってからは自分の仕事量を二倍以上にしたんだ。僕は、死がドアを叩きにくる時(When Death Comes Knocking)に、玄関で答えるには忙しすぎる状態にしておこうと思ってるのさ。
今までの僕の人生のどの夏よりも僕はこの夏ハードに働いた!!
僕の人生は旅、その先に何があるのかはわからない終わりのない迷路を通る旅だ
今年の夏、僕は数え切れない程のショウをした
キムと僕、"アイヴィーサ123" で「グレイテスト・ダンサー」を演奏中
僕、アダム・ランバート「シェイディ」でギターを弾いているところ
パブロ・ピカソのケイプ(マント)・メイカーのケイプをまとった僕、僕のアパートで伝説的なブルース・ウェバーに撮影されているとき
本のイヴェントでスタッフTシャツにサイン中(彼女の着衣中に)
僕は音楽人ビリー・マンと共にドラフトFCBアド・エージェンシーでスピーチした
僕は新聞に記事を数本執筆した
癌手術後の最初の食事、この後、僕は仕事量を二倍以上にした
僕はこの夏、何千ものスナップ写真を撮影した
今日、僕は野生のマンドリルが窓の外にいる夢をみた
今日、僕は自分が夢を見ているとわかる前に悪夢で目を覚ました。野生のマンドリルが窓の外にいて、カメラを取りに走るか命を守るべく走って逃げるかどちらにするかわからないという夢をみたんだ。周囲を見回して、僕に襲いかかるような野生の霊長類がいないことを確かめたよ。
時計を見て寝坊した事に気が付いた時、僕の平和なひとときは短命に終わったよ。僕は急いで支度をした。何故かというと僕はドゥレクセル大学の学部長補佐とのミーティングの予定を入れていたからね。
今年の初めに、僕は人文学の名誉博士号を(ドゥレクセル)大学から授与されているんだ。本当に名誉な事で、これからも常に大切にしていくつもりだよ。授与されるにあたっては「七歳にして、アメリカ合衆国の教区立学校システムのずる休みアメリカ国内記録を作った奴にしては悪くないじゃないか」と考えずにはいられなかったね。
ドゥレクセル大学はペンシルヴェイニア州フィラデルフィアに在って、あの有名なシグマ・サウンド・スタジオのテープ・ライブラリーを保管する中心地でもある。彼等は R&B、ポップそしてダンス・ミュージックにおいて重要な役割を果たした貴重な音源を幸運にもずっと保管(セイヴ)してきている。今日(こんにち)まで僕の人生も救って(To Save My Life)くれている音楽の数々さ。
ミーティングがあったので僕は急いで着替えた
ドゥレクセル大学の学部長補佐、Louisa Hanshew と会う為に車を走らせる
今年初めに僕は人文学の名誉博士号を授与された
本当に名誉な事で、これからも常に大切にしていくつもりだ
七歳にして、アメリカ合衆国の教区立学校システムのずる休みアメリカ国内記録を作った奴にしては悪くない
毎日、音楽は僕の人生を助け続けてくれている
ドゥレクセル大学はペンシルヴェイニア州フィラデルフィアに在り、あの有名なシグマ・サウンド・スタジオのテープ・ライブラリーを保管する中心地でもある
アイルランド、ベルファストでの "Le Freak" ブック・パーティーにて、(現地の)新たな友達と
僕の自伝 "Le Freak" が発売されてからそろそろ一年が経とうとしている。この間(かん)の経験は僕が予期していたよりもずっと多くのものをもたらしてくれているよ。読者と僕の物語を共有する事で僕はとても多くの人々を新たに知るようになった。そして、僕が思うに、充分に記録されうることのないその場その時での人生の様態を彼らは知るようになった。あの時代の音楽、ファッションそして理想主義はワンダフルだったよ。僕は数多くの音楽、人生そして愛がまだ自分の中に残っていると信じているし、最後の息をするまで理想主義的でいるだろう - 僕はそれを acceptance(受諾ー逆らわず、認め受け入れる事)と呼んでいるんだ。
昨日、古くからの友達で癌からの生還者が近しい親戚を二人失ったんだ。「地球は嫌な事を経験させるよな」と彼は言ったよ。でも、ううむ、僕は万物に関する禅のおだやかな精神でそれを(前向きに)捉えているんだよ。"安寧に、出来る限り、しかし無関心というわけではなく(Serene, Almost, but Not Indifference)" とね。
Kyle MacLachlan、Angela Yee、僕そして Gayle King、最初の "Le Freak" サロンにて
僕、僕の本が売り切れとなったエディンバラ国際ブック・フェスティヴァルにて
僕の自伝 "Le Freak" が発売されてからそろそろ一年が経つ
経験は僕が予期していたよりもずっと多くのものをもたらしてくれている
"Le Freak" はもう買ってくれたかい?
書店用のサイン入り "Le Freak"
安寧に、出来る限り、しかし無関心というわけではなく
7x7TH STREET Animation
数日前、僕は Fringe Festival の為にスコットランドのエディンバラに居た。それは世界最大の芸術に関するフェスティヴァルなんだ。僕は主に作家としてそこに居たんだけど、作曲家としての立場もあった。僕は "7×7th Street" というプロジェクトの一員だったんだ。七人の別々の作曲家が七人の別々のインタラクティヴな彫刻を譜面化(音楽化)した。それは音楽のメイジャー・スケールの七つのトーン(訳註:和音コードのAからGをさす)に対応した色の建物の中にディスプレイされている。これはベルギーのネオ=ポップ・アーティスト、Jean Pierre Muller によって生み出されたものだ。
僕の作曲(担当)はFのキー、色はインディゴ・ブルー(藍色)。どの断片も僕の人生の多くの側面を表わしている。全部で十一分の長さにわたり、七つの楽章からなっている。それは "インディゴ・F 組曲" と呼ばれていて、(本ブログの)この回のプレイリストが "F・ジャズ・ブルーズ楽章" から始まるよ。
エディンバラ・ブック・フェスティヴァルで自伝 "Le Freak" の事を話す前、観客の為にジャズを何曲かジャムっているところ
"7×7th Street" 「インディゴ F ハウス」の中の壁のディスプレイ
"7×7th Street" インディゴ・ハウスの中での僕(撮影者が僕の眼鏡の中に写りこんでいるのが良いね)
"7×7th Street" で楽しんでいるところ
"7×7th Street" でのんびりとやっているところ
譜面の「I」の所が "F ジャズ・ブルーズ楽章" の冒頭部(ああ、そこは二重線でもっと強調するべきだよね、分かってるよ)