まだ2013年の三日目だけど既に素晴らしい年になっているよ! 有難う日本! すぐに戻ってくるよ。さて、家へ帰ろう。成田発ニュー・ヨーク市JFK着の便で。
「惑星Cを行く」にとって2012年は素晴らしい年だった。ナイルの癌、音楽そして人生についてのブログの2012年のハイライトを振り返ってみると、僕等はとても誇らしく思えてくるよ。その大部分は僕等の感謝の念に溢れてるんだけどね。支えてくれた全員、週次の報告を読んでくれたみんな、そして毎日献身的に働いてくれたみんなに対してのね。
これが2012年のトップ15ブログです。ハッピー・ニュー・イヤー!
#1 "I'm Still Freaking Out" - September 23, 2012
六十歳の誕生日を、僕は古い友達の結婚式に出席する為にロンドンへ向かっていた機内で迎えた。僕の(六十歳という)記念碑的な誕生日に、誰も機上の僕と出会えなかったので、何人かの近しい友人たちがこんな大きな作業に乗ってくれたんだ。(訳註:embarkは「計画に乗る」と「飛行機に搭乗する」を掛けている)
#2 "I Know That I'm Dying" - May 20, 2012
この数日間ほど眠って過ごした日々を僕は覚えていない。このところとても体調が悪く、(直後の)広域にわたる移動とコンサートにむけて力(気持ち)を整理しなければいけなかった。でもその休息をもってしても体調は増々悪化した。今日、空港から家への運転中に僕はかなり体調が悪くなり「死につつあるな(I Know That I'm Dying)」という思いを断ち切れなくなった。前向きに考えようとした - けれど「死につつあるな」という言葉が頭で繰り返された。
#3 "Freakout! Montreux" - June 28, 2012
僕は一晩中起きて、来たる七月十三日にモントルー・ジャズ(・フェスティヴァル)で行う大規模なダンス・パーティのプランを詰めていた。これは CHIC の結成以来、僕が(中心になって)行うこの種の最初のイヴェントになる。「ダンス・ミュージックの進化」だと捉えているんだ。
#4 "Madonna to Adam Lambert" - September 7, 2012
最近とても多くの友人知人の死が続いているんだ。それは僕に、(逆に)命という贈り物(生きていること)は全く何て尊いものなんだろうと思わせてくれるよ。何人かは予期せず突然亡くなり、あとのみんなは色んな病気との長期にわたる闘いの末に亡くなっている。よくこう言うよね、「あるドアが閉じると他のドアが開く」って - それは本当に僕の人生のパターンなんだ。
#5 "Daft Punk is Hanging at My House" - February 7, 2012
今日僕は Daft Punk として知られている Thomas Bangalterと Guy-Manuel de Homem-Christoと一緒に過ごすんだ。僕達は以前出会ったと言えば出会ってるんだ、昔、九十年代にニュ・ーヨーク・シティで彼等がちょっとしたリスニング・パーティをやっている時にね。バタバタした状態だったから、芸術的繋がりを持つようなチャンスは無かったんけど、僕の前のパートナー、バナード・エドワーズの死に対してお悔やみは言ってくれたよ。おまけに彼らは CHICに惚れ込んでいてくれて。僕の(彼等に対する)思いも同じだ。
#6 "Daft Punk Album - I'm Hyped" - August 10, 2012
この数日の間、僕はこの既に(この時点で)エキサイティングな一年の今後に関しての山ほどのミーティングを行ったよ。もうこれ以上興奮する事はないねと思っていたまさにその時、ダフト・アートのポール・ハーン(※)から僕に電話があったんだ。彼はニュー・ヨークにいた。僕もそうだ - 僕らはお互いの他のミーティングの合間に会おうという事になった。そしてグランド・セントラル駅にあるマイクル・ジョーダンが経営するレストランのバーで落ち合った。僕らはその大急ぎのミーティングの時間内で出来る限り多くの事について語り合ったよ。(※訳註:ダフト・アートはダフト・パンクのヴィジュアル部門)
#7 "Trust the Process" - May 9, 2012
アダム・ランバートの新作『トレスパシング』がリークされた。みんなの多くは僕が 'Shady' という曲で演奏しているのをもう聞いてくれている事だろう。(でも)その経緯は知らないよね。これはアダムと(共演している)サム・スパロウがトウィッター(ツイッター)で僕にこのファンキーな曲で演奏してくれないかと頼んで来たのが始まりなんだ。
#8 "Singing and Dancing My A$$ Off!" - January 20, 2012
昨日僕はアセラ・エクスプレス(訳註:米旅客鉄道公社「アムトラック」が運行する、ボストン - ニューヨーク - フィラデルフィア - ワシントンD.C.を結ぶ高速鉄道[特急列車]のこと)でペンシルヴェニア州フィラデルフィアにあるドゥレクセル大学に行ったんだ。いくつもの理由から訪れたんだけど、そこに居る間に彼等の音楽記録保管所に行ったんだ。
#9 "I Guess We All F***'d Up?" - October 6, 2012
僕は体調が最悪という状態を脱しつつあるところだ、でも不満を言っているんじゃないよ。(文句をいう)代わりに自分に問いただしているのさ、「僕よりもいったい誰がうまく(最悪と)つきあっている?」とね。僕は数えられないほどの回数、死から逃れてきた。そして僕は今も(又もや)快方に向かっており、これまでにもまして仕事をしているよ。
#10 "Declared Officially Dead" - December 1, 2012
最近僕は八十年代の僕のデモのいくつかに合わせて演奏しているんだ。昔のバンド仲間とジャムるのは興奮するね。僕はギターを弾くのが大好きで、残りの人生の間、毎日弾いていられるよ、ただ楽しむだけの為にね。
#11 "When Death Comes Knocking" - September 4, 2012
夏は正式に(本格的に)終わりを告げ、いま我々アメリカ人は仕事に戻るところだ。(でも)今までの僕の人生のどの夏よりも僕はこの夏ハードに働いたよ - 各種イヴェント期間の書き込みをしてある以外、カレンダーは僕にとってあまり意味を持たなかったほどさ。僕の人生は終わりのない旅、迷路、トンネル、窓そしてドアを通る、しかもそのどの先にも何があるのかはわからない旅なんだ。
#12 "My Favorite Daft Punk Records" - February 8, 2012
僕は朝早い電車に乗らなくてはならなかったんだ、というのも Daft Punk と一緒に許される限り目一杯時間を過ごしたかったからね。数年もの失われた時間と過去に会いそびれたチャンスとを穴埋めしなきゃならなかった。トーマスが言ったよ「ナイル、全てが完璧に折り合って僕らをこの瞬間に導いてくれたのさ」ってね。
#13 "They Know the Song" - June 5, 2012
長年のパートナー、バナード・エドワーズは東京の日本武道館の売り切れ満席の観客を幕のこちら側からちらっと覗いた。「あれを見ろよ」舞台へあがる直前に僕に言ったんだ、「俺たちは(とうとう)やったんだ。みんなは俺たちを観に来たんじゃなくて、俺たちの(作った)音楽を聴きに来たんだよ」とね。それが彼との最後のコンサートになった。終演後、彼はホテルの部屋に戻り、ソファーの上で亡くなったんだ。彼のその言葉は予言的な意味で合っていたよ。僕らは自分たちがやろうとした事を達成したんだ。
#14 "Walking on Planet C with The BBC" - September 15, 2012
この数日の間、僕は「惑星C」をBBCラジオの Paul McClean と「歩いて」いるんだ。僕の万屋アシスタントであるリッチ・ヒルトンも一緒にね。「惑星C」というのは癌にやられてからの僕の人生を表すのに自ら作った造語だ。歩くことは自分でコントロールできるセラピーのメイン部分なんだ。歩くことは身体にも心にも良いよね。全身のフィットネスを手助けしてくれるし、僕が自分自身を保つ為の、一日の中でとても平和なひとときでもある。ウォーキングの間、僕は決して音楽プレイヤーを携帯しないんだ、何故って音楽はいつも僕の頭の中で鳴っているからさ – それらの音楽は散歩中に遭遇する光景や音にインスパイアされて(選ばれて)いるよ。
#15 "Feeling So Shady" - April 24, 2012
やぁ、みんな、Dだよ(IAmMisterD)。ナイルはロンドンに居て世界を乗っ取ってるところだ。で、僕はこのブログを乗っ取ってこれを君達と分かち合いたかったんだ(彼の気に触らなきゃいいんだけど!)。 みんなも知ってる通り、ナイルはアダム・ランバートの最新アルバムで仕事をしていて、彼等のコラボレイションである 'Shady' に対する期待は信じられないの一言さ!
ドナ・サマー:「the real deal」(ザ・本物) 撮影:Fin Costello/Redferns
歌手ドナ・サマーは七十年代ディスコ・ムーヴメントの導灯だった、バンド CHIC のギターリスト、ナイル・ロジャーズと同様に
ドナ・サマーが誰なのかを知るより前、僕はガールフレンドとグリニッチ・ヴィレッジにあるナイトクラブに入った。そしてその時にかかっていた曲は 'Love to Love You Baby(愛の誘惑)' だった。あんな曲は聴いた事が無かったよ。まるでダンスフロアーで僕を誘惑しようと天使が耳元で囁いているみたいだった。翌日そのレコードを買ってきたんだけど、ただぶっ飛ばされたね。丁度この時は僕が CHICのコンセプトをまとめようとしていた時期で、もし、あのレコードが僕に多大な影響を与えなかったなんて言おうとするだけでも、僕は正直者ではなくなるね。
ドナは僕が言うところのソウル・シスター、同志だった。彼女は洗練されていて、彼女は趣味がよくて、彼女は美しくて、彼女は格好よくて、そして彼女は本当に歌えたんだ。彼女には独特の雰囲気があった・・・誇り高く自信を持って格好よく粋に自分を表す「スワガー」、まさしくそれだったよ。ドナと僕はおそらく尊敬と敬愛の範囲内でこれ以上は親しくなれないという程の間柄だったと思う。でも、僕らは一枚のレコードすら一緒に作らなかった、完璧な組み合わせだったはずだけどね。言ってみれば僕らはどちらも同じ鋳型から鋳られた者同士だった、なのにバナード・エドワーズと僕が最初に仕事をしたのはダイアナ・ロスだった、ドナ・サマーじゃなくてね。どうしてそうなったのか、僕にも判らないよ。
僕等はライヴで一度共演しただけだった。それはダイアナ・ロスの為のスペシャルTV番組だった。マライア・キャリー、ビヨンセ、そしてドナ・サマーが出演し、僕は音楽監督を務めた。YouTubeで観てみてよ、ドナが何をしたか:歌い倒したんだよ、言ってみれば、僕のスタイルの音楽をね。証拠を確認してください、裁判長、彼女は疑いの余地無く殺した(悩殺した)んです。
僕は我がままで奔放な人としてはドナを知らなかった。もし仮に彼女がそういう人間だったとしても、僕は彼女のそんな部分は一度も見た事が無い。信じてくれ、僕は渦中に居たんだぜ。ドナに会う時は毎回と言っていいほどとても上品なセッティングの中でだったよ。彼女はとても崇高で、自分の家族の事をとても大事にしていた。彼女には(芸能界とは)別の人生があったんだ。
(ドナ逝去の)ニュースを聞いた時はショックだった。もしかしたら衝撃がより大きかったのは彼女が病気だとは全く知らなかったからかもしれない。僕はスイスのモントルーでの大きなショウの最中(準備中)で、彼女が僕と一緒に歌ってくれたらと願っていたんだ。彼女のマネージャーでもある夫のブルースは僕に言った、「もし可能なら、ドナはきっと駆けつけるよ」とね。そしてそのまま彼女は逝ってしまった。信じられなかったよ。
僕はドナのことを、いつもきちんと巡って来ては明るく燃えて輝く宇宙の彗星の様に感じていたよ。彼女には一連の素晴らしいヒット・レコードの数々がある。'Love to Love You Baby' だけじゃないんだ、例えばアルバム "Four Seasons of Love" は信じられないほど良く組み上げられ、しっかり考え抜かれている。僕は歴史がドナを正しく適切な光の元に見てくれるのを期待している。だって彼女は正真正銘の本物、メガ・ミュージシャンだったんだから。その彗星はあまりにも早く燃え尽きてしまった。
The Guardian紙のオリジナルの記事を読むには、ここをクリック HERE
最初の百人は僕の招待だよ、無料だ!
みんな感謝の念を抱く事柄が沢山あると思うけど、僕も魂の芯でそれを感じているよ。僕の人生の現時点で、おそらく(みんなが思うのとは逆に)、僕は出来るだけ(みんなに)無償で提供しようとしているんだ。何故って僕はもうかなりのものを失っているから。最初の CHICの男性バンド・メンバーは僕を除きみな亡くなってしまった。彼等全員が The CHIC Organizationの音楽を生き続けさせている事に僕は敬意を払っているよ。
僕の人生の日々毎日に僕は感謝しているんだ。僕がイヴェントをする時はいつも何かしら無料のものを用意したい。僕のブライヴェイト・パーティーの顧客達は(彼等の)会社の素晴らしいイヴェントのチケットを百枚無料で配布する事を許してくれた。普通は関係者以外はこの手のパーティーには行かれないんだよ。飽食と貧困の混在するこの世界で、無償で何かを提供(Give It Away Now!)出来ることはとても価値があることだ。
僕の組織、ウィー・アー・ファミリーのチーム! ミラノにて
CHICオリジナルメンバーのポートレイト
(彼等が)The CHIC Organizationの音楽を生き続けさせている事に僕は敬意を払っている
僕が行った多くの無料イヴェントの一つで演奏しているところ
テキサスでの CHIC 無料コンサートで演奏しているところ
この有料イベントの直前にも僕はオーストラリアで無料イベントを開催した
この数日、僕はタークス&カイコス諸島にいた
この数日、僕はタークス&カイコス諸島にいたんだ。頭の中の空気を入れ替えて、エキサイティングなイベントの続く新しい年に集中しながらね。(米国)東海岸の連中、ローズ、マーク、そして勿論ナンシーとを中心に、そして西海岸の友達ジョイス&マイクル・オスティン夫妻 ―マドンナの『ライク・ア・ヴァージン』で一緒に仕事をして以来、最も仲のいい友達の一人となった―と一緒に大抵ここに来るんだ(※)。
僕は一緒に居て心から楽しめる人々を連れてくるんだけど、いつも新しい友人達も招待するんだ、アマンヤラ(タークス&カイコス諸島のプロヴィデンシアレス島にあるホテル)での楽しい時を味わってもらいたくてね。この充実した時間が、僕がひと息ついて恩恵の数々を思い返す時なんだ。
This この旅行で僕は、古い友人であるAngela Yeeと新しい友人の歌手でもうすぐTVスターになるローレル(Lore'L)とを、本当の休日を取るように説得したんだ。元気(気力)を取り戻すのにどれだけ休暇が大切か、僕はよく判っている。僕と同じで、ほとんどの僕の友人達は仕事中毒(ワーカホリック)なんだけど、仕事中毒の人間っていうのは無理矢理休養を取らせなきゃ(Forced to Relax)いけないんだよ。
(※)マイクル・オスティンはワーナー・ブラザーズの名A&Rとして知られた人物で、『ライク・ア・ヴァージン』タイトル曲をマドンナに向いているとチョイスしたり、「愛は色あせて」のカヴァーを薦めたりしている。ほかにバナード・エドワーズが関わっていた時期のロッド・ステワートの諸作等でもその名を確認できる。
ローズ、マーク、そして勿論ナンシー
僕の西海岸の友達、ジョイス&マイケル・オスティン夫妻
マイクル・オスティンと僕は八十年代から友達で、マドンナの仕事を一緒にした
僕は一緒に居て心から楽しめる人々を連れてくるんだ ― ナンシー、「セックス・アンド・ザ・シティ」のクリエイターであるダレン・スターと、Da Conch Shack(レストラン)にて
充実した休暇のひとときが、僕に立ち止まって(一息ついて)恩恵の数々を振り返えらせてくれる
僕は古い友人であるAngela Yeeを、タークス&カイコス諸島の隅々まで体験するよう口説き落とした
アンジェラは、彼女の友人で歌手でもうすぐTVスターになるローレルを、タークス&カイコス諸島(TCI)の隅々まで体験するよう口説き落とした
コンチ・ピストル(訳注:事実ではないが、巻き貝[コンチ]の生殖器と見なされている部分)を食べるまでタークス&カイコス諸島では一人前じゃないよ
アンジェラが先に挑戦して、ローレルは馬鹿にしていた
最後にはローレルも腹をくくった!
ローレルはもう少しで怒りだすところだったけど、ちゃんと飲み込んで、僕達も誇らしかった!
立ち直りつつあるローレル…
そして彼女は笑いのけた、本物のギャングスタ流だ
女の子達がローズをプールに呼び出した
ローズが、アンジとローレルが帰る前に彼らと最後に一泳ぎしようとしている
ローズ、アンジェラとローレルは最後のひと泳ぎを一緒に楽しんだ
彼らが帰るのを皆残念がったが、彼らがここに戻ってくるって僕は判ってる、だってアマンヤラは否が応でも君をリラックスさせてくれるから!
Freak, Freak, Freak, Freak, Freak, フランクフルト・スタイルのフリークアウト!
ヒューレット・パッカード・ディスカヴァリーと呼ばれるイベントで演奏する為に僕達はフランクフルトへの素晴らしい旅をしたところだ。これらの写真を見てくれれば、どんなセットだったか判ってもらえると思う。僕のキャリアの中で最大級のヒット曲を数多く演奏する二時間のショウだったよ。相変わらず僕は死といくつもの小競り合いをしてきたし、僕の(運命の/死の)瞬間はステージ上で訪れるかもしれない。でも僕は気が付いたんだ、時に僕は世界で一番ラッキーな男だと思えるよ。音楽は生と死の釣り合い(Life and Death In Perspective)を保ってくれているんだ。
Freak, Freak, Freak, Freak, Freak, フランクフルト・スタイルのフリークアウト!
喝采を受けているフォラーミ!
Freak, Freak, Freak, Freak, Freak, ヒューレット・パッカード・スタイルのフリークアウト!
キム・デイヴィスが “Thinking Of You” で観客をうっとりさせているところ
いい女!
引き続きいい女!
めちゃくちゃいい女!
僕、ドン・ハリス、ビル・ホロマンと共に
貴女、今夜は僕に耳を傾けてくれ、だってこれ以上無いくらいの気分なんだから (訳註:近年のレパートリー、Modjo/Lady (Hear Me Tonight)[2000、「スープ・フォー・ワン」をサンプリング] 冒頭の歌詞)
セラーンの熱心さ
周りを気にせず楽しんでる別のいかした女の子
"Let's Dance" をキメるラルフ・ロール、ジェリー(・バーンズ)とセラーン
ステージ上はダンサーが多ければ多いほどいい
さあ、決めようぜ!
僕、♪ノウ、ノウ、ノトーリアス!(訳註:この曲の歌い出し)を演奏しているところ
ステージ上にはダンサーが多ければ多いほどいい
僕とジェリー・バーンズが例のファンクをやっているところ!
フランクフルト・スタイル
Freak, Freak, Freak, Freak, Freak, フランクフルト・スタイルのフリークアウト!
おやすみドイツ、二月に戻ってくるよ!
“Good Times” - シークの武道館でのライブ
最近僕は80年代の僕のデモのいくつかに合わせて演奏しているんだ。昔のバンド仲間とジャムるのは興奮するね。僕はギターを弾くのが大好きで、残りの人生の間、毎日弾いていられるよ、ただ楽しむだけの為にね。
昼休み中に数分間ツイッターを覗いてみたんだ。そしたら誰かがシークの武道館ライブから“Good Times”の動画をアップしていた。すごく気に入ったよ。僕の古いデモに合わせていつまでも(ギターを)弾いていられるように、このヴィディオを永遠に観ていられるよ、というのも僕はいつも何かしら新しいものを(古いものの中にですら)見つけるからね。
今日、僕はこのパフォーマンスを全く異なった観点から観たんだ。観ながら自分にこう言ったよ、“これは最後に僕がバナード・エドワーズと一緒に“Good Times”を演奏した時だ”とね。彼は見事に且つ鮮やかに演奏していたよ、彼の身体と心そして魂とが既に変調をきたしていたにもかかわらずね。この曲(を演奏した)の数時間後に彼は死亡宣告を受けた(Declared Officially Dead)んだ。
ここ数日は、八十年代、僕の最初のソロ・アルバムとなったデモ音源を発掘して作業を続けている
僕はこの数日間、八十年代に出した僕の最初のソロ・アルバムのデモ音源を発掘して作業を続けているところなんだ。ここには(デイヴィッド・)ボウイーとの最初のアルバム『レッツ・ダンス』のミーティングをした時にやったアイディアがいくつかあってね。二日前、僕はバナード・エドワーズとトニー・トンプスンという、いずれもだいぶ前に亡くなってしまった元CHICのバンドメイトと僕が一緒に演奏しているという夢を見たよ。僕はこの古いデモ(の中)の彼らと演奏する事で僕の夢が叶ったと感じたんだ。八十年代のデモにのせてギターを弾いたから、僕は僕自身とジャムった事にもなるんだ! なんだかびっくりだよね。
僕は間もなく日本へ行くんだ。日本はいつもバナード・エドワーズの事を想い起させるよ。彼は僕らが一緒に行った最後のコンサートの後にその日本で亡くなったから。おそらくそれが僕が音楽の夢を見た理由なのかな? 今日、僕は僕のオリジナル・(昔の)ギター・プレイとばっちり混ざり合った(新しい)僕のギター・プレイを聴いたよ。僕が弾いたギターはザ・スミスのジョニー・マーがくれたものだった。何故ならザ・ヒットメイカーという名前の僕のフェンダー・ストラトキャスターは修理中だから。今日、僕はジョニーから電話を貰ったんだ。彼がニュー・ヨークに居るだなんて、そして僕が彼のシグネチュア・ギターでレコーディングする事になったなんて考えてもみなかったね。僕はヴードゥー(古くからのまじない、魔法)を信じないほうだけど、でも・・・(I Don't Believe in Voodoo But...)
ボウイーと僕、スタジオにて - 僕は僕のファースト・ソロ・アルバムのカヴァーと同じヴェストを着ている
僕のファースト・ソロ・アルバムのバック・カヴァー
アーティスト(イラストレイター)がトニー・トンプスン、僕、バナード・エドワーズを表現 (訳注:『ビリーヴァー』のカヴァーより。イラストレイターは日本が誇るペーター佐藤[故人])
見つかった「失われたテイプ」のいくつか
ナイルとナード(バナード)、96年の武道館 - バナード最後のショウ
僕が弾いたギターはザ・スミスのジョニー・マーがくれたものだった
僕がニックネイムをザ・ヒットメイカーという、僕の1959/60年ストラトキャスターをライヴで弾いているところ
今日、僕はジョニーから電話を貰った。僕はヴードゥーを信じないほうだが・・・
僕は今日、ラス・ヴェーガスから帰宅し、三か月にわたる手続きを経て連邦レベルで身分証明として認められる運転免許証を受け取りに出向いた
感謝祭を家族と一緒にラス・ヴェーガスで過ごしてから家に戻ったとき、僕には普通ではない何かが起こっていることがわかっていたよ。そしてそれは確かに起きたんだ。僕は更新された認証済みの運転免許証を(やっと)手に入れたのさ。もし君が最近の二回分のブログを読んでいないのなら、この一見単純な(普通の)事をなぜ「普通ではない」と書いたかはわからないだろうけどね。
説明させてくれるかい:2012年9月6日、僕は古い免許証を新しいものに交換しに行ったんだ。9月19日(訳注:誕生日)に期限切れになるところだったからね。新しいものを発行してくれたんだけど、連邦IDとしては使えないと僕に言ってきた。それは基本的には、飛行機の国内便に搭乗する際でもパスポートが必要で、僕がより高度な調査と更なる検索の対象になるという事を意味していたんだ。これは即ち僕の忙しく飛び回っている人生では、更なる遅れと場合によっては何便かのフライトに乗り損ねる事を意味するんだ。こんな不合理な全ての経緯をもう一度書かずに、新しい免許を手にする為に僕がしなければならなかったことを説明するよ。この、右上の隅に金色の星がある、つまり当局の確認済みを意味する免許証をね。
ここ三か月以上にわたって、僕は少なくとも二十回の問い合わせ電話をかけて、数えきれない時間を電話口で費やしたんだ。そして僕はコネティカット州ウエストポートの運転免許証発行所に合わせて四回、コネティカット州ブリッジポートの社会保障エイジェンシーに二回、そしてロウワー・マンハッタンにあるNY市の重要記録省に一回、それぞれ足を運んだんだけど、ハリケーン・サンディの災害でNYの浸水と停電があった地域だったから、業務を再開するまで二週間も待たなくちゃいけなかったんだ。
僕が住んでいる州(コネティカット)は、国内法となる2017年12月1日の数年前に、この法律をいち早く施行すると決定したんだ。これに関しては、僕の人生っていうのは皮肉に事欠かないね。僕の新しい免許証の期限をみてくれよ、施行後たった十ヶ月だけ有効なんだ。その時点で、僕はまた新しいフ○ッキン運転免許証(Another F-king Drivers License)を取らなきゃいけないのさ。
僕は右上の隅にある金色の星が認証済みを意味している、更新された免許証を手に入れた
飛行機の国内便に乗る事さえ許可しない、誕生日の一週間前に発行された運転免許証
僕の社会保障カード
僕がこの一連の手続きにあたり入手しなければいけなかった初期の文書のひとつ
確認され(たIDを持た)ないとどうなるか、これで彼も分かるだろう
君の運転免許証には金色の星がないと駄目だと言ったじゃないか
感謝祭の夜、ラス・ヴェーガスの大通りで
ラス・ヴェーガスにて家族との感謝祭 - 兄弟のひとり、ダックスのタトゥー
いつもと違う感謝祭の(感謝の)意味は、右の女性ハティーは八十四歳、ということ
ロウワー・ニュー・ヨークを襲ったハリケーン・サンディの洪水、NY市の重要記録省近く
国内のフライトにも使えない(身分証明書として認めてもらえない)、この前の僕の誕生日(九月十九日)の一週間前に発行された運転免許証
2012年の九月六日に、僕は運転免許の更新に行ったんだけど、それが悪夢の始まり(The Beginning of A Nightmare=前回ブログのタイトル)だったんだ。僕は古い免許証を早めに提出しておいたんだ。というのも十年前、国内線の飛行機に乗ろうとした(身分証明書として運転免許証を見せた)たとき、僕の免許証の期限は(うっかり)切れてちゃっていたんだ、けれど彼らはそのまま僕を乗せてくれてこう言ったんだ「問題ないですよ、よくある事ですから。」とね。
覚えているかい? あれは九月十一日の悲劇の後、国中の空港が非常警戒態勢だったけど、僕達はそれでももっとアメリカらしかった。僕が生まれた国、自由の地、海から光り輝く海(※)、そして僕達が大切に守っていた全てのこと - 今はもう無いらしいが、学校の授業に公民があった、そんな国だよ。(訳註:from sea to shining sea は最も有名な愛国歌の一つ”America The Beautiful”の歌詞の一部)
僕が迷っているかのように聞こえるかもしれないけど、これはこのあとに続くことを関連づけるんだ。
僕の新しい免許を手にその女性はさらりと言ったんだ、「国内便には向いておりません」とね。「どういう意味だい?」がドアの外に半歩でながら僕がした返事だったよ。僕が室内に戻ると彼女はこう言ったんだ、「お客様は(在住の確認用に)ご自宅に郵送された郵便物が二通と社会保障カード、それに確認済み免許証を取得する際に使った古い免許が必要です」と。
彼女は、六年前に2017年には法律となる予定の法案が可決されたと説明してくれた。でもコネティカット州はそれを早く制定した、と。本当に? 僕は彼女に、僕は自分が十三歳の時からずっと、社会保障カードを携帯してこなかったと話したんだ。そして僕は明確に覚えているよ、僕が最初に言われた事のひとつが、きっと僕は失くしちゃうからカードを持ち歩かずに安全な場所に置いておきなよというものだったのをね。だから1963年にちゃんと安全な場所にしまったんだ、でも当然、他のアメリカ人と同様に、僕は関係する情報、番号そして名前は知っているよ。彼女は僕に話した、「知っているというだけでは不充分です。(提示して)証明していただかないと」と。もちろん僕はそんな事は出来ないから訊いたんだ、「他に何かできることは?(他に何か手はあるの?)」と。彼女は言ったよ、「お客様の社会保障番号が印刷されている文書の正本をお持ち下さい」とね。僕は彼女にオーケイ、数日後に会おうと言ったんだ。僕は少し怒っていたけれど理解の範囲内ではあった。
僕は立証されていない(連邦レベルでは身分証明書として有効でない)運転免許証とパスポート、社会保障番号入りの文書、そして必須といわれた二通の郵便物を持って数日後に戻ってきたんだ。彼女はコンピュータで作業をしてから戻ってきて言った、「手続きができません。コンピュータが先に進ませてくれないのです」と。僕は訊いた、「それはどういう意味だい?」。彼女の説明はこうだ。僕の社会保障(番号)の情報は彼らのコンピュータの記録とは合致せず、プログラムが次段階のプロセスへ進むのを許可してくれない、とね。繰り返し質問をすると彼女は僕に教えても差し支えない情報をくれた、「お客様には社会保障情報上で合致しないものが二つございます」と。僕は言った、「それならよく起きることだから簡単だよ、みんな僕の姓名のスペルのどちらかを間違えるからね。Nilesとsを入れてしまうか、Rogersとdを入れないかじゃないかな?」と。彼女は言った、「それも問題の一つなのですが、もっと重大なことがあるのです!」僕はどのぐらい重大なんだい?ときいたんだけど彼女の答えは「申し上げられません」だったよ。
その時点でいくらか敵対関係となってしまって、彼女は僕が生まれた病院へ行き、おおもとの出生証明書の写しを持ってくるようにと言ったんだ。だから僕は説明したよ、自分が生まれた時に養子縁組に出されたとね。病院がそれを記録するにあたり、僕はベイビー・ボーイ・グッドマンと呼ばれていたんだ。僕は彼女に話したよ、「ロジャーズ姓での文書は無いんだ。でも僕は十九歳から使っているパスポートを持っているよ。それを発行した政府機関は僕の出生証明書よりもいい証拠資料を必要としたんだから、これで充分とはならないのかな?」と。「申し訳ございません」彼女は言った「お客様にそうしていただかないとならないようです!」とね。その時点で僕は自分が乗り出そうとしていたのが地獄のような旅だったとは認識していなかったんだよ。
今ごろはハッピー・エンドとなっていると思ったので、僕はこの話の最初の部分を一週間前に書いたんだ。今日は感謝祭で僕はネヴァーダ州のラス・ヴェーガスにいる。母のもとを訪ねているんだ。僕は連邦レヴェルでは身分証明証として認められない免許証と出生証明書を持ってこの地を旅している。僕は日本でのワーキング・ヴィザを申し込まなければいけなくて、パスポートを提出しなければならなかったんだ。今の時点で、僕はまだ「何てこったい」な状況下(I'm Still in Limbo WTF)なんだぜ?
空港の出発ゲート
国土安全保障の警告レヴェル
七年生用の公民の教科書 - 中学校の話だぜ
「Select CT ID」と呼ばれるコネティカット州(CT)の新たな運転免許/身分証明書制度
十三歳からこっち、僕はこれらを直接手に持っていない - グレイスランドでエルヴィスの運転免許証の写しなら確かに買ったけどね
これはNiles Rodgersという名の男の墓、僕の名前の綴りでよくある間違い
ドナルド・トランプの出生証明書 - そう、彼はこれを持っているからアメリカ人なわけ(訳注:トランプ氏がオバマ大統領に出生証明書の提示を執拗に求めたことに対する皮肉か?)
彼ら(病院)が僕の誕生を記録した際、僕(の名前)
はベイビー・ボーイ・グッドマンだった
僕は十九歳の時にセサミ・ストリートのトゥアーに出ていた時から使っているパスポートを見せた
僕と仲間、セサミ・ストリートのセット
僕ができることは何一つなかった - 僕は笑顔をつくって重要記録省(部)へと向かった
重要記録省のある通りには、「最強者の通り」というぴったりのあだ名がつけられている
今日、僕は母を訪ねてヴェガスにいる。でも僕はパスポート無しで国内を旅行できている(してしまっている)のをとても怖がっている
僕はまだ「何てこったい」な状況下(I'm Still in Limbo WTF)だ