僕の古い、チーム・ダッジのレーシングスーツ
今日は、ここアメリカ北東部でこの季節いつになく暖かな普通の日だった。僕は、何をすることもないという日を、そうそう持っていない。何時間かの間、僕は悩みが何もないように装った。
僕はかつてのレースドライビングの技術を呼び起こし、僕が親しみを込めてオレンジ・ビーストと呼ぶもの(車)で路上へ飛び出した。これは比類の無い工場で造られた、特別注文の縞模様も細部の装飾も無いグラバー・オレンジ仕様のフォード・マスタング・シェルビー・コブラGT500コンバーチブルだ。(グラバー[人の心をつかむ]・オレンジはマスタングの人気色のひとつ)
僕がそれを注文した時、フォードが訊いた。"何故あなたは、それとは見えないシェルビーGT500を望んだのですか?" と。僕は "僕が人々の隣に(この車を)停める時、彼らにこの車は一体どんなものなのだろう、と不思議がらせたいんだ" と答えた。
遠い昔、僕はスキップ・バーバー・レーシング学校に通い、車で出来ることを沢山習った。時折、僕は(仕事が終わった後)空の駐車場を見ると、Uターン(one-eighty=180度)を何度かしたり、かつて僕達がハンドブレーキ旋回 - 前方または後方の同じ方向に車を回転させること(僕の御気に入り) - と呼んでいたことをしたり、また車が減速している時アクセルを踏み、今来た道を戻る等のことをする。
だが、今日、僕はただハイウェイに乗り、オレンジ・ビーストのステレオを打ち鳴らし、500馬力で走らせた。
普通の見た目のGT500
コネチカット州北部のライム・ロック公園 - 僕はどこもかしこも覚える位に何度も運転している。
スキップ・バーバーにて、レースのフォーメーションに整列した車
飾り立てられたグラバー・オレンジと黒のマスタング
オレンジ・ビーストを500馬力で走らせることが出来るよう、ガレージの扉が開くのを待つ
シドニーでの離陸が中止になる前の、飛行機からの一枚
僕がこれを書いている時、数日前に僕がオーストラリアのシドニーから家に飛んで帰ろうとしていた際に離陸中止となった飛行機はまだ地上で修理中だった。
ジョージ・ワシントン・ブリッジ - 僕達のニューアーク空港への最終進入
この写真の真ん中に、自由の女神がいる - 僕達の最終進入
メッツ・ライフ球場 - ニューアーク空港への最終進入
ニューアーク・リバティ空港で接地
僕は世界で一番偉大なハウスキーパーを得た。おかえりパーティで僕は豪華なご馳走を食べた
僕は、僕が無事に家へ帰ったことを母に証明する為にこの写真を撮った
シドニー国際空港>>ロサンゼルス国際空港>>ニューアーク・リバティ国際空港::ファンキーにやろう!
CHIC Orgスタッフのテリー、マルコがアデレードに外出出来るようになった
しばしば僕達の人生の最も素晴らしい時代は、一見して僕達がちょっとした共通のものを持っていると信じている、その場所にいる人々とのやり取りに費やされる。
驚く。人々、場所そして世界中の物事はとても似ている。ただ、見なくてはいけない
路上のバケツドラマーが、シドニーで日々の糧を稼ごうと努めている
メルボルンの本屋で人々と話す
CHIC Org達(メンバー) 数人
アデレードの数人のCHIC Org達(メンバー)
皆楽しむのが好きだ
パフォーマーの家族が日々の糧を稼ごうと、旅行者達の為に踊り、演奏をしている
KFCはオーストラリアの店のまっただ中にある?
彼らはまさにオペラ(ハウス)も持っている
僕達には、共通して都合の悪い時を捉えるジャーナリストさえもいる
僕はニュー・ヨークから来た - サブウェイは僕達が共通して持つものだ
皆バックステージ・パスを欲しがる。そのアーティストを知らない時でさえ。- どうしたんだい?
スターバックスは僕達が共通して持つものだ
僕は発言を終える
ただ、見なくてはいけない
昨夜のウォーマデレイドショーは何かに見守られていた
僕は、めったに途方にくれて言葉を失うことはない。だが、昨夜のウォーマデレイドショーは何か見守られるものだった。ここ(グルーブシャーク)で演奏された僕らのセットリストは、圧倒的に支持された。
僕はこの感覚とそれについて、長々と述べることは出来なかったが、それは全て写真に捕らえられた。僕はこれが全てを語っていると思う
僕は昨日オーストラリアのアデレードに完全に疲弊して到着した
僕は昨日オーストラリアのアデレードに完全に疲弊して到着した。その前の日、僕は、癌手術後の副作用による試練の8時間を終えた病院の緊急治療室にいた。それは潜在的にとても危険な出来事だった。医学的出来事(処置)はうまく終わったが、僕は1分の睡眠もとれなかった。
そして、僕は続けて講演・本のサイン会とコンサートを同じ夜に行った。ヒルトンにチェックインした時、僕は部屋に入って数分のうちに眠りについた。リップ·ヴァン·ウィンクル昏睡状態 -5時間連続のナイルの世界- に陥る前に、僕は窓から写真を撮った。
それは17:00(僕の仲間のアメリカ人向けだと5pm[という表記])で、道路は車と人で少しばかり賑やかだった。僕は22:00頃起きた。カキの巨大な大皿を平らげたすぐ後に、僕は振り返ってこの一枚を撮った。同じ通りはほとんど無人だった。左下隅のデジタル時計の時刻、10:03に注意して欲しい。
この時点で、僕はシーザーサラダを貪り食っていた。そして第二ラウンドの睡眠祭が始まった。僕は次に3amを最後に目覚め、今や道全体が無人だった。三脚無しで、本当に少しの明かりしかなかったので、僕はかろうじてピントを合わせることが出来た。
その通りはさらに数時間の間は基本的に無人のままだった。夜明けの直前、 生命の兆候が戻って来た。突然、僕はあたりがどんどん明るく(ブライトに)なってきていて、(でも)月がまだ見えることに気づいた。僕は一枚写真を撮って、名案(ブライトなアイディア)が閃いた。
僕は服を身に付け、下に降りて行き、朝食を食べ、そして次の二枚の撮影時刻を完璧に合わせた。写真の真ん中を近くで見てみれば、沈みゆく月が分かる。そして、まさにその瞬間、反対側には昇る太陽があった。それは僕の昨日の冒険だった。夕暮れから夜明けまで?
医学的出来事(処置)はうまく終わったが、僕は1分の睡眠もとれなかった
そして、僕は続けて講演・本のサイン会を行った
そして、僕はまたコンサートを同じ夜に行った
僕は窓から写真を撮った。それは17:00(僕の仲間のアメリカ人には午後5時)で、道路は車と人で少しばかり賑やかだった
僕は振り返ってこの一枚を撮った。同じ通りはほとんど無人だった
僕は次に3amを最後に目覚め、今や道全体が無人だった
三脚無しで、本当に少しの明かりしかなかったので、僕はかろうじてピントを合わせることが出来た - その通りはさらに数時間の間は基本的に無人のままだった
夜明けの直前、夜明けの直前、生命の兆候が戻って来た
突然、僕はあたりがどんどん明るくなってきていて、月がまだ見えることに気づいた
写真の真ん中を近くで見てみれば、沈みゆく月が分かる
そして、まさにその瞬間、反対側には昇る太陽があった
何ヶ月か前、三百人の人々が僕たちと共にステージに上がった
"僕たちと踊りたい人は誰でもステージに来て!" というのは僕が時々叫ぶことだ。僕は、舞台が余分な重量に対処する事が出来ることを確認した時だけそうする。どうにかステージが重さに対処することが出来た、本当に沢山の人々が上がった機会が何度か過去にあった。
昨夜のステージは(それが)確かかどうか分からなかったから、この最初の写真がどう見えるかに反し、僕が叫んでいたのはそうではなかった(僕はそう叫んでいない)。どちらにしろ、僕たちのツアーマネージャーは人々を招いた。突然、僕が呼び出さなかったステージに人々が上がって来た。半ば混乱していたが、それはとても楽しかった。
結局のところ、一人がCHICイズムの過剰摂取をした。だから、少年少女、覚えておいてくれ、僕が "僕たちと踊りたい人は誰でもステージに来て!" と叫んだ後が、CHICと一緒にステージで踊る時だ。
突然、僕が呼び出さなかったステージに人々が上がって来た
半ば混乱していたが、それはとても楽しかった
結局のところ、一人がCHICイズムの過剰摂取をした
だから、少年少女、覚えておいてくれ、僕が "僕たちと踊りたい人は誰でもステージに来て!" と叫んだ後が、CHICと一緒にステージで踊る時だ
僕は緊急治療室に入ることとなった、重篤な術後の症状が起きたからだ
昨夜、真夜中を回った頃、は緊急治療室に入ることとなった、重篤な術後の症状が起きたからだ。僕はオーストラリア、メルボルンのエプワースリッチモンド病院に行った。グランド・ハイアット・ホテルのコンシェルジュは、自分は手術をそこで受けたが素晴らしかったと言っていた。僕の体調は生命を脅かすものではなかったが、それは潜在的に非常に深刻だった。
僕が病院に到着したとき、僕はすぐに楽になった。彼らは明らかにプロだったが、僕が入って来た時、彼らはまだスタッフの交代に向けて準備を進めていた。彼らはまだかなり集中していて、全てを正確に行なっていた。
僕は服を脱いだ。そして、僕担当の看護師が「私は昨日テレビであなたを見たわ」と言って、油断していた僕の隙をついた。僕たちは笑い、それが一時的に僕の痛みを和らげた。
医者は僕の問題の最先端の知識を持っており、すぐに僕の現況に基づいて治療法を幾つも提案した。彼は僕を治療し、いくつかの薬を処方してくれた。しかも、徹底的にその有効性を議論した後で。僕は退院する時幾つかジョークをかまし、看護師は笑った。僕はホテルに戻る途中に少し眠り、スピン誌とのインタビューをした。
僕の体の問題は昨日始まったが、すべてが素晴らしかった。今日、僕はコンサートとサイン会の前にこれを書いているが、それがまた完全にうまくいくと思う - 少なくとも観客たちにとって。
素晴らしいショーの始まりであるシドニーでのステージを捉える
昨夜はオーストラリア、シドニーでの僕たちの本当に最初のショーだった。僕が言えることは、それは素晴らしいショーだった、ということだけだ。
僕の一日は午前5時の早朝ラジオインタビューで始まった
今は僕の月曜の朝だ。僕は午前4:30に起き、5:00には用意した。これらの写真はその後のシドニーでの6時間だ。