僕のNY市内にあるアパートメントのリヴィングルームの一部分
昨夜は僕のNY市内のアパートメントで過ごした - でも(今朝は)早朝からセッションがある為にコネチカットへ戻らなければいけなかった。(通勤)電車に乗ろうとグランド・セントラル駅を歩くうちに、僕は配られていた多くの無料の新聞の中から一部を貰った。情報はオンライン(インターネット)で入手しているので決してしない事なのだが。
僕がこれまでに駅で手にした唯一の(無料)新聞がこの2つの記事を丁度隣り合ったページに並べて載せる確率って一体なんなんだろう?
最初の記事はアダム・ランバートの新作『トレスパシング』について - 僕が参加した曲「シェイディ」をハイライトとした記事だった。続いての二つめの記事はダイアナ・ロスの新DVDについて、やはり僕が参加した曲、それどころか共作、オーケストラ編曲、共同プロデュースそして演奏もしている「アイム・カミング・アウト」をハイライトとしたものだった。彼女のキャリア中で最も売れたアルバムとなった『ダイアナ』収録曲だ。
もう一度訊くよ。「アダム・ランバートとダイアナ・ロス(Adam Lambert and Diana Ross)の記事が続き、この二曲がハイライトとなる確率って一体なんなんだろう?」
(通勤)電車に乗ろうとグランド・セントラル駅を歩く
となり合ったページに、この二つの記事が、(しかも)僕が駅で手にしたたった一紙に載っている確率って一体なんなんだろう?
最初の記事はアダム・ランバートの新作『トレスパシング』について - 僕が参加した曲「シェイディ」をハイライトとした記事
二つめの記事はダイアナ・ロスの新DVDについて、「アイム・カミング・アウト」をハイライトとしたもの
彼女のキャリアで最大に売り上げているアルバム - 『ダイアナ』
アダム・ランバート
そしてダイアナ・ロス
来たるフェスティヴァル用のプロモ・ヴィディオ・メッセイジの撮影直前、僕は自分の中国式のベッドでリラックスしていた
来たるフェスティヴァル用のプロモ・ヴィディオ・メッセイジの撮影直前、僕は自分の中国式のベッドでリラックスしていた。主治医のもとから電話が来た。癌手術後の(検査の)結果に関するものだ。僕の気分は良かったが、心では悪い報せがくる覚悟もできている。僕はおそるおそる電話に出た。看護士は僕に言った「貴方の血液検査結果が出ました。最高といえるもの(The Best It Could Be)でした」と。
僕は彼女に感謝し電話を切った。そして奇妙な理由から正気とは思えない(似ているようで似ていない)状況が僕の頭の中にぱっと浮かんだ。数ヶ月前に僕らはスイスで企業招待のギグを行ったんだけど、ブッキングをしたエージェントは悪い報せをする覚悟をしていた。開演前、彼らは僕らに「皆さん悪く思わないで下さい。とても社会人然としたスイスの観客はこういったコンサートでも踊らないんです」と告げたんだ。
僕はそのエージェントに言った。「僕らが演る音楽はみんなを踊らせるさ!」
このヴィディオの音質が(特定の音が近くなったり遠くなったり)変化するのは(撮影した)ギター・テックが会場をずっと歩いて移動していたからだ。(果たして)僕らの「とても社会人然としたスイスの観客」は踊っている - そしてライヴの出来もやはり最高といえるもの(The Best It Could Be)だったんだ。
開演前、彼等は僕らに「皆さん悪く思わないで下さい。とても社会人然としたスイスの観客はこういったコンサートでも踊らないんです」と告げた
僕らの音楽はみんなを踊らせる!
僕らの音楽はみんなを踊らせる!
僕らの音楽はみんなを踊らせる!
僕らの音楽はみんなを踊らせる!
僕らの音楽はみんなを踊らせる!
癌手術前そしてその後の僕のセラピーのひとつは散歩だ
癌手術前そしてその後の僕のセラピーのひとつは散歩だ。散歩は多くの人にとって有益だけど、僕にとっては自分の身体のエクササイズだけではない - 心のエクササイズにもなる。僕は自分の目に入ってきたものや感じたことをもとにして(散歩中に)歌を口ずさむ。音楽プレイヤーは決して携帯しない。僕と一緒に歩こう、それで僕の意味することがわかるよ。
今日、僕は(散歩に)出たくて仕方なかった。僕のトレードマークである「頭」のバンダナを忘れる程に。僕は歩き出し、向きを変える(turn around)のでFlo Rida の "Turn Around 5,4,3,2,1" を歌った。この曲は僕の散歩のテンポをとても速くしてくれる。
角にさしかかり、僕は今まで気が付かなかった竹(bamboo)を見つけた。僕は本能的にShakiraの "Hips Don't Lie - Bamboo" を歌いだした。その竹の植えこみから数百ヤード行ってソーガタック・バーバー・ヨット・クラブに到着したが、僕の注意を惹いていたのは道を横切る(running)兎だった。僕はRoy Ayersの "Running Away" を歌い始めた。
僕は散歩中に多くの友達を作る。今日最初の新しい友人となったのは犬だった。"♪1,2,3の4、スヌープ・ドギー・ドッグとドクター・ドレイ がドアに着いたぜ" と "Nuthin but a G Thang" を歌い始め、長いこと - 通りで一番新しい家を過ぎても - 共同の小さな専用橋も過ぎ、そして早朝の釣り人のところを通り過ぎても(歌っていた)。
近隣の家(house)に気を配り始める(ぐらい近づく)まで、僕はこの曲を十分間ぐらい歌う。それから僕は何曲かの似たタイプのノリをもつ「ハウス」ミュージック、"Move Your Body"、"Pump Up The Jam" そして(それらをサンプリングした)Royal Houseの "Can You Party" を、最終的に自分の家(house)に戻るまで歌う。(さぁ、これで)君は典型的な惑星Cの散歩(A Typical Walk on Planet C)をした事になる。
今日、僕は(散歩に)出たくて仕方なかった。僕のトレードマークである「頭」のバンダナを忘れる程に
僕は歩き出し、向きを変えた(turn around)からFlo Rida の "Turn Around 5,4,3,2,1" を歌った
本能的にShakiraの "Hips Don't Lie - Bamboo" を歌いだした
僕の注意を惹いていたのは道を横切る兎。Roy Ayersの "Running Away" を歌い始めた
今日最初の新しい友人となったのは犬だった
この通りにある最新の家
僕らのソーガタック島の橋(共同の専用橋)
釣り人が出て行く、早朝の大漁を狙って釣りをしている
以前から百回は見かけている家が、今日は僕の頭の中へ脳内DJがハウス・ミュージックを送り込む(その切っ掛けとなる)
ハウス・ミュージックを僕が歌う(切っ掛けとなった)別の隣家
ハウス・ミュージックを僕が歌う(切っ掛けとなった)更に別の隣家
最終的には我が家へ戻った
僕と母 - 彼女は十四歳、僕は生まれて数ヶ月週間
アメリカでは今日は母の日。僕の母と僕はずっと近い関係だったが、更に僕が癌にやられれてからはほぼ毎日話をする様になった。僕らは年齢も近い。何故なら母は十三歳で僕を妊娠したからだ。僕は彼女の五人の息子の長男にあたる。歳も近いので、僕らはとても多くのものを共有している - ユーモアのセンスも。
僕が七歳の時、彼女は継父ボビーと再婚した。二人はクールなビートニクで、僕を子供というより仲間として僕を扱った。それが僕がどうして独立心がかなり旺盛になったか(の主因)だ。いま僕も歳を重ね、それにとても感謝している。
両親は僕が今まで知る中で最も面白い人物だ。ボビーは少し前に亡くなった。彼はレニー・ブルース(往年のヒップなコメディアン)ぐらい面白おかしく、母は同じぐらい滑稽だ。彼女はいま電話をくれて、僕からの母の日プレゼントに感謝してくれた。後の会話中ずっと、僕らは笑っていた。
会話の終わりに電話を切って思った、僕がどれほど母を愛し、尊敬し、理解しているか、と。彼女は美しく、オーソドックスではなく、知的で、風変わりで、そしてユニークだ - 「まさにおまえ(自分)の母親だな!」("A Real Mother For Ya!")
僕の母、ビートニクと初期ヒッピーの端境期
僕のおばミッジとその兄弟ボビー、数ヶ月後に、この写真を撮った母と結婚した
継父ボビー、うちの飼い犬と
ベヴ(ボビー)の息子全員
母とクリス・タッカー、『ラッシュ・アワー2』のセットで(エンディング・テーマをCHICが担当した)
継父ボビーの葬儀でHonor Guardに先導される母
ボビーの葬儀で彼の軍役に対し国旗礼式で敬意を表すHonor Guard - 遺灰は箱の中に
ライオネル・リッチー、母(アニマル柄が好み)そして僕 - まさに僕の母親
僕とアニータ・ベイカー - 彼女は本物だ
アダム・ランバート(と)のメイキング・ヴィディオを見せて以来、僕は偉大さを当たり前のように思っていた事に気が付いた。数多くの偉大な人々との仕事がほとんどで僕は本当にラッキーだ。僕の世界(周囲)がどんなかをもう少し共有したい。パフォーマーのショウが演出され、メイクも衣装もきれいに着飾り、音もパーフェクトな時、彼等を高く評価するのは容易い。
(でも)そんなセッティングが何も無く、素のままのアーティスト(の技量)だけを見た時、そのアーティストが「本物」かどうかがわかる。これはアニータ・ベイカーがCHICの "I Want Your Love" を憶えているところ。周りは(準備等で)大混乱中、でも(こんな状態での一部分を見ただけで)彼女が正真正銘の本物(This Is the Real Deal)だってわかるよね。
アニータ・ベイカーの周りは大混乱中 - (それでも)これこそが本物だとわかる
"Everybody Dance" の12インチ・シングルのカヴァー(註:レーベル部の剥げ跡から察するに7インチだと思われる)
CHIC用にと僕が最初に書いた曲は "Everybody Dance" という。録音には10ドルしかかからなかった。僕のその後の人生全てを変えたのがまさにその曲だった。
録音をした数ヶ月後、僕のパートナーだったバーナード・エドワーズと僕は The CHIC Organization の僕らなりのコンセプトを固めた。この僕の最初の曲の成功が、魅力的なスーパースター達と巨大なプロジェクトとに関わるその後の人生の軌道に僕を乗せた。
観客の居ない会場で(In An Empty Room)しかも普段着で、この人生を変えた曲を演奏するのは、皮肉にも素晴らしい何かがある。
観客の居ない会場で "Everybody Dance" (註:リハーサルの模様)
僕とシール
僕とロッド・スチュワート
僕とエディ・マーフィ
僕、フォンジー(・ソーントン)そしてルーサー・ヴァンドロス
僕とスラッシュ
ミハイル・ゴルバチョフ、メアリー・J.ブライジと僕
僕とグレイス(グレース)・ジョーンズ
ドミニク・キーアネーゼ(チアネーゼ、俳優)、僕、ジョン・オーツ、バリー・マン&シンシア・ワイル(ウェイル、作詞作曲家コンビ)、ティンバランド、(フランセズ・W. プレストン[BMI会長]、)ルベーン・ブレッズ(ルーベン・ブラデス)、ダリル・ホール
カトリーヌ・ドヌーヴと僕
僕とシェール(右はアルファ・アンダースン)
ポール・サイモンと僕
僕とエルトン・ジョン
1983年、デイヴィッド(デビッド)・ボウイ、ココ・シュワブ、僕、リック・ジェイムズと
面識の無いまま、アダム(・ランバート)と僕はスタジオの予約を入れて経過を(それが上手くいくと)信じる事にした
アダム・ランバートの新作『トレスパシング』がリークされた。みんなの多くは僕が "Shady" という曲で演奏しているのをもう聞いてくれている事だろう。(でも)その経緯は知らないよね。これはアダムと(共演している)サム・スパロウがトウィッター(ツイッター)で僕にこのファンキーな曲で演奏してくれないかと頼んで来たのが始まりなんだ。
少し遣り取りをした後で僕らは取るべき方法は一つだと思った。面識も無いまま、アダムと僕はスタジオを予約した – 昔デュラン・デュランのジョン・テイラーが言っていたっけ、「経過を(それが上手くいくと)信じるのさ」ってね。
"Shady" を聞く前にNRP (Nile Rodgers Productions) はRCA&MTVに自己紹介
「Shady」のコーラスを聞いた最初の時 - 僕はいつもコーラス部から始める
「Shady」の曲となりを理解している
「Shady」のイントロを初めて聞いている
この時点で(アダムが来る前に)僕は少なくとも二十種類以上(のパターン)を「Shady」で弾き、今、丁度もう、只ただジャムっているところ
アダムに初めて会った直後に、彼のアイディアを聞く機会を得る前に、何故僕がこれらの(僕の)最初のアイディアを弾いたかを説明しているところ
サム・スパロウのブリッジ(サビ)で別のアイディアを演奏
この時点で僕らは曲を把握したので、彼等がフェイド・イン&アウトできるペダル・パート(適所に差し込める切り貼り用のパート)を弾いた
アダムはプロフェッショナルで自分のやりたい事が判っている。でも僕のやり方で曲を解釈するのを許してもくれる
このアダムの笑顔が全てを物語る - これこそが何故僕が音楽を演奏するかだ
昨日、ブログを更新した後で、僕は早朝の散歩に出た
昨日、ブログを更新した後で、僕は早朝の散歩に出た。本当に低い干潮だったので、写真を撮るのに裏口から出た。それはこれまで見たことがないほどに低く(−1.29フィート[註:マイナス40センチ弱])、できるだけ遠くへ散歩に出るのを我慢できなかった。
底はとても柔らかく、一度岩場を過ぎると深い流砂の様に感じた。防衛本能が働いてアドレナリンが僕の体を駆け巡りだした。沈みだしたのでひやひやしたが、何枚か面白い写真を撮りにボードウォークの下まで行ってみた。
僕の靴は濡れて泥だらけになったけれど、散歩にはその靴で出た。前回の治療上の散歩から随分と経ち過ぎた。そのノリ(勘)を取り戻すのに時間はかからなかった。天気もばっちりだった。
裏口から出るなり僕は "Every day I’m shufflin’… Shuffle-in Shuffle-in" という LMFAOの "Party Rock Anthem" の歌詞を歌った。続く特徴的なシンセサイザーのリフを口笛で吹いた。僕はおよそ2マイルしか歩かなかった。何故なら6:30に深部組織指圧の予定を入れていたからだ。
家へ戻る最後の角を曲がる際には "CHIC Cheer" を歌っていた。道路へ出る私道(車道)にさしかかり、家の前にあるゴミらしきものを目にした。僕がゴミだと思ったそれにカメラのフォーカスを合わせた時、僕は "CHIC CHIC" という歌詞を歌っていた。100パーセント実話だ
これまで見たことがないほど低く引いた潮(−1.29フィート)
ボードウォークの下から干潮時の僕のドックをのぞむ
裏口から出るなり僕は "Every day I’m shufflin’… Shuffle-in Shuffle-in" という LMFAOの "Party Rock Anthem" を歌った
午前の6:30に到着した指圧の先生
うちの前の道にさしかかり、ゴミらしきものを目にした
僕がゴミだと思ったそれにカメラのフォーカスを合わせた時、まだ "Chic Cheer" の歌詞 "CHIC CHIC" を歌っていた – なんでその時、うちの前にこれがあったのかは分からない
LMFAO
(いつもの)ボードウォークの下("Under the Boardwalk /The Drifters [1964]" にかけていると思われる)
帰宅して前庭へ出た
帰宅時の僕
昨日の早朝、僕は前向きな日課を再開した
昨日の早朝、僕は一年以上前に最初に癌にやられた際に信仰の様に行っていた有益な日課を再開した。主治医達が一日数マイル歩く事を主とするエクササイズの日課を課したのだ。それは、いろいろな意味で治療に役立った。
僕は毎夜を生き抜き翌朝(生きて)目覚める事に非常にこだわっていた。散歩は死への憂慮を心から取り除き、僕が生を祝福するのを手助けしてくれた。(だが)一度、夜毎の死への恐怖が去ると、それで満足してしまい、僕はその日課をやめてしまっていた。
数ヶ月前(註:昨年十一月)にシールと共にトゥアーに出た時、彼はいつも運動をしていた。自分は可能な限りそのレヴェルでパフォーマンスできるようでいたいからだと言っていた。
パフォーマンスに関して言えば、僕はいつも100パーセントを出す。意思の力、音楽への愛情そして激務への献身を信じてきた。舞台で走ったり飛び回るとき、17歳の頃との違いは感じない。でも(運動不足ではない)健康な体に戻らなければいけない事を理解できるくらいに物分りは良い。
人生はハードだ。でも美しくもあり、僕は自分の人生のクォリティを可能な限り美しいままで保ちたい。僕は知的、肉体的そして精神的な状態(Mental, Physical, and Spiritual Shape)を最高のものに戻すべく、自分の努力を二倍にする。
僕はトレッドミル(ルームランナー)を持っているので、天候と関係なく毎日歩ける – 運動をしない言い訳は何も無いのだ
散歩は死への憂慮を心から取り除き、僕が生を祝福するのを手助けした – これは東京で散歩をしているところ
彼(シール)は可能な限りそのレヴェルでパフォーマンスできるようでいたいと言っていた
パフォーマンスとなると、僕はいつも100パーセントを出す
意思の力、音楽への愛情そして激務への献身を信じている
ステージに立つと17歳の時に舞台を走ったりジャンプしたりしていた頃と違いは感じない。とはいえ、この写真のときの僕は26歳だが
これは数週間前にザ・ビター・エンド・クラブで演奏している僕だが、何と僕は17歳のときにもこの場所で演奏していたんだ!
人生はハードだ。でも美しくもある。そして今日の我が家の裏庭は美しかった
僕は知的、肉体的そして精神的な状態を最高のものに戻すべく、二倍の努力をする
今日は気分が上向いている。昨日はブログを書けなかった(書ける気分ではなかった)、済まない
昨日はブログを書けなかった(書ける気分ではなかった)、済まない。書く数時間前に、ザ・ビースティー・ボーイズのアダム・ヤウクが癌で亡くなったと聞いた(からだ)。僕は彼がザ・ビッグC(癌)と闘っているのを知らなかった。ニュー・ヨーク市の自分のスタジオを引き払ってからのこの数年、僕は泡のようなものの中で(街の喧騒から離れて)生きてきたからだ。
僕はアダムが僕に最初に言った言葉を鮮明に思い出す。「世界を仕切ってるんだ(だから最高さ)!」それは「調子はどうだい(どうしてるんだい?)」という僕の質問に対する彼の答えだった。場所はNYのパレイディアム・ナイトクラブ、彼等がマドンナとマディソン・スクエア・ガーデンで行ったコンサートのあった晩の事だった(※)。その彼の答えは僕を笑わせた。何故ならとても巧妙で迅速で予想外だったからだ – まさに癌、彼の命を奪った病気の様に。(※註:ビースティー・ボーイズはマドンナのザ・ヴァージン・トゥアーのサポート・アクトを務めている。その最終地であったMSGでの公演は1985年6月10、11日)
僕は月曜日に癌手術後の血液検査の件で主治医と会わなければならない。アダムの訃報を聞く数時間前、僕は、生きている間ずっと、三週間ごとに化学療法による治療を受けつづけなければならないという人々と昼食を共にしていた。それが手術不可能な腫瘍の大きさを医師が管理できる唯一の方法なのだという。その昼食の最後に僕は言った「君たちは僕の新たなヒーローだ!」と。
僕はそのような人生がどのようなものなのかを想像できない。僕は自分の様々な(闘病に於ける医療)処置を「中世の拷問よりはひと段階ましなもの」と表現してきている。でも生きている間ずっと、三週間ごとの化学療法というのは理解できない。それが巧妙で迅速で予想外な癌(Clever, Quick, and Unexpected Cancer)の現実なのだ。
ニュー・ヨーク市の自分のスタジオを引き払ってからのこの数年、僕は泡のようなものの中で(街の喧騒から離れて)生きてきた
ザ・ビースティー・ボーイズ、マドンナのポスターの前で
殆んど知られていないが、ビースティー・ボーイズはザ・ガーデン(MSG)に出演したのと近い日程で(同じ)NYのレイディオ・シティ(・ミュージック・ホール)にもマドンナと共に出演した。(註:6月6、7、8日)
僕は自分の様々な(闘病に於ける医療)処置を「中世の拷問よりはひと段階ましなもの」と表現してきている。
アダム・ヤウク、安らかに(1964年8月5日~2012年5月4日)