Monday, November 25, 2024

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Heartbreak, Death and Destruction

November 4, 2012


ハリケーン・サンディが米合衆国北東部を襲ってから一週間が過ぎた

ハリケーン・サンディが米合衆国北東部を襲ってから一週間が過ぎた。多くの掃除や修理をしなければいけないけれど、僕の家は比較的無傷だったよ。

今日、僕はNY市の五番目の行政区であるスタトゥン島へ行き、その惨状を直接見てきてくれないかと、(普段)一緒に働いているみんなから頼まれたんだ。目にしたものを信じられなかったよ。おもちゃの破片のように散らかったボート、家、トラックそして車。この地域はまだ停電中で、寒くて暗い間の、そんな夜の恐怖は想像しかできないよ。

僕はハートブレイク(悲嘆)、死、そして破壊(Heartbreak, Death and Destruction)からなる多くの物語と同時に、(自己)犠牲と圧倒的な親切からの行動を見聞きしたんだ。

 


多くの掃除や修理をしなければいけないが、僕の家は比較的無傷だった


おもちゃの破片のように散らかったボート、家、トラックそして車


この地域はまだ停電中で、寒くて暗い間の、そんな夜の恐怖は想像しかできない


食事を無償で提供していたこの女性のような人々が大勢いた


ハリケーン・サンディの風と竜巻がこれらのボートとその残骸を1マイル先からここに落とした


この写真ではものごとは普通にみえるけれど、もしカメラを数インチ動かすと、どこもかしこも破壊されている


母なる大自然(強風)により別の車の上に落とされた車


発電機用にガソリンを得ようと行列する人々


このキュートな彫刻は嵐の難を生き延びた


これは(その彫刻の)、向こうに投げ飛ばされた数隻のボートも捉えた別のアングル


彼女は言う「私は人生ずっと外交官を世話してきましたが、今、どうして誰かが私を世話してくれたりはしないのですか - 私は丁度国連の仕事を引退したところなんです」

 


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Halloween Party in My Building

November 1, 2012


ハロウィーンの夜、ロウアー・マンハッタン地域はハリケーン・サンディの余波でまだ停電中

今週は異常な一週間だったというのは、今年一番の控えめな言葉(表現)といえるだろうね。僕がこのブログを書いているのはハロウィーンの夜、ロウアー・マンハッタンはハリケーン・サンディの余波でまだ停電中なんだ。僕のアシスタントのスーズはこの二日にわたり、彼女の高層アパート・ビルの中に閉じ込められていたよ。何故ってロビーが水浸しなんだ(彼女はあしたには救出されるだろう)。

空港が閉鎖されているから、世界中からやって来た数多くの僕の友達がまだここで立ち往生しているんだ。そして僕らは毎年行っているウィー・アー・ファミリー・ファウンデイションのガーラ(・コンサート)の延期を強いられたよ。三日経ったというのに(会場であるハマースタイン・)ボールルームにはまだ電気が来ていないんだ。

ハロウィーンという、いつもはお祭り気分で、しかも僕の以前のパートナーであるバナード・エドワーズの誕生日だというのに、僕は途方に暮れているよ。というのも僕がいま書いた全てのものごとが自分ではコントロールできないことだから。僕は自分の状況を受け入れていて、そしてその中でできるベストのことをしてみようとしたんだ。少なくとも、僕の(いる)ビルにいた子供たちは素敵なハロウィーン・パーティ(Halloween Party in My Building)をしたよ。

 


NY市で前例のない洪水


NYラ・ガーディア空港の一枚 ハリケーン・サンディが去った後


僕らは毎年行っているウィー・アー・ファミリー・ファウンデイションのガーラの延期を強いられた


近所のハロウィーン


僕のいるビルの中のハロウィーン


僕のいるビルの中のハロウィーン


僕のいるビルの中のハロウィーン

 


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Gala Rescheduled, Please Stay Safe

October 28, 2012


1ドルかそれ以上をウィー・アー・ファミリー・ファウンデイションに – (詳しくは)上の「DONATE $1+」をクリックして

「ガーラ・コンサート延期、どうか安全に過ごしてください」
ハロー!

「ウィー・アー・ファミリー」の精神にのっとり、僕らは誰でも歓迎します・・・でもハリケーン・サンディという名の招かざる客が立ち寄り、しかもしばらく居るつもりだというんです!

皆さんの安全と安心を考慮して、ウィー・アー・ファミリー・ファウンデイションは、2012年10月29日の月曜日にNY市ハマースタイン・ボールルームで行う予定だった2012年セレブレイション・ガーラ(・コンサート)を、なるべく近い開催可能な日まで延期する事にしました。

今週中に新しい日程を伝えられると思います – この街で一番のパーティを皆さんに(見)逃してもらいたくないですから!

多くの州が非常事態を宣言しています。どうかこのストームを深刻に捉え、安全でいる為に必要な予防措置をすべて講じてください。僕らはハリケーン・サンディが街を離れた後で、あなたとすぐに会うのを楽しみにしています。

前を向いて、上を向いて!
ウィー・アー・ファミリー・ファウンデイション・チーム

 

 


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A Night to Remember

October 19, 2012


"We Are Family" 皆さんにむけての音楽メッセイジ

僕はいつもよりも忙しいんだ。何故って僕は普段の仕事並みに一連のチャリティ事業にも直接関わっているからね。僕と同様、具体的には癌の闘病のことだけど、一般的な困難に苦しんでいる人が数多く居るのを知って、僕はこのブログを始めたんだ。人生というものは幸福な瞬間を時に伴う困難の集まりだよね。

僕はとても辛いときにも良いことを見つけようとしているから、僕は自分でコントロールできるだけの幸福を経験できているんだ。僕は「働くことと与えること」を、「楽しみと報われること」と考えようと心掛けているんだよ。

僕は子供の頃から世界中を旅してきて、みんなが見つける(経験する)とは思えないであろう親切な行いを見てきたんだ。人間には親切という素晴らしい能力が備わっている。僕が向き合っているどんな健康の問題とも無関係に、僕の人生は楽しくて価値あるものだよ。僕は自分の人生を変えることとなった数多くの曲を生み出してきた。「ウィー・アー・ファミリー」は僕自身のチャリティ団体のインスピレイションにもなったよ – そして歌の様に、僕らのプログラムは何百万もの人々(の心)にふれ、この最初の十一年で僕らが達成したものは僕を謙虚な気持ちにさせるよ。

The whole WeWe Are Family Foundation チームのみんなは僕らの来たるガーラ(コンサート)にむけて働き尽くめなんだ。2012年十月二十九日の月曜日マンハッタン・センターのハマースタイン・ボールルームで行う予定だよ(訳注:ハリケーンの影響で延期)。僕らは数名のヴィジョンをもった人道主義者を表彰するんだ:スティングトゥルーディ・スタイラージェニ・ステパネク、Ph.D.、そしてReservoir Capitolのダニエル・スターン。たくさんの僕の友達がパフォームする予定なんだ。過去(のガーラ・コンサート)から将来を占う事ができるのであれば、忘れられない夜(A Night to Remember)になるよ。

 


Dora The Explorer のプロデューサー、Brown Johnson と僕、ピーター・ゲイブリエルのウィットネス・ガーラで


僕は自分が役員でもあり、オスカー候補になった IMPACT レパートリー・シアターを招いて共演した


僕は「働くことと与えること」を、「楽しみと報われること」と考えようと心掛けている


僕らWe Are Family Foundationスクールのひとつを建設しているところ -人間には親切という素晴らしい能力が備わっている


完成したWAFF スクールと生徒たち


オリジナルの「ウィー・アー・ファミリー」の楽譜(歌メロと構成譜)


2002年、WAFF と Court TV は、ビーコン賞で二部門を受賞した「悪意の余波の中で子供たちに権限を与える」という30分の特別番組を共同でプロデュースした


TED×Teen は WAFFの別のプログラムだ


WAFF の スリー・ドット・ダッシュというプログラムに参加する十代の面々が、キャッチファイアのレイチェル・チャン、コカ・コーラのセレステ・ボーットーフ、フェデックスのローズ・J. フレノールのプレゼンテイションを傾聴している


これが簡潔に我々(の思想)を要約している、何故なら僕らは楽しんだりもするから


スティングとトゥルーディ・スタイラー、WAFF 2012で受賞する人道主義者


マッティ・J.T. ステパネクと彼の母ジェニ – 彼が最初の、そして彼女は最新の WAFF ピースメイカー・アワード受賞者


ダニエル・スターン、リンカーン・センターの映画協会理事長


僕とサー・エルトン・ジョン、WAFF ガーラで CHICと共演しているところ


僕、リトル・スティーヴンそしてジャクスン・ブラウン、WAFFガーラにて


ザ・B-52ズ、昨年の WAFFガーラで


僕とミス・ピギー(マペット・ショウ)、WAFF ガーラで

 


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New York Comic-Con

October 13, 2012


献身的ということについて話そうか – このリアルな彫像(着ぐるみ)の中にまる一日入っている奴がいた!

診断(癌手術後の定期検診)を受ける時はいつでも、僕は感情の全てを感じるんだ。僕はいつもある程度の恐れ、絶望、怒り、注意、痛みそしてストレスを持っているけれど、望み、尊敬、忍耐、そしてラヴ&ハピネスを感じる状態にどうにか戻ってくるんだよ。僕がやっている異なる仕事が、必然的に人生や人の価値の有難みを認識する状態に戻るのを保証(後押し)してくれるんだ。今週、僕の医学技法(治癒プロセス)は喜ばしくも中断されてしまったよ。僕の Sumthing Else Music Worksというヴィディオ・ゲイムのサウンドトラックを専門とするレコード会社の社長という役目によってね。僕はヴィディオ・ゲイム(・ミュージック)の作曲の芸術性について話す作曲家パネリストの一人だったんだ。Jacob Javits Center での満員御礼だったニュー・ヨーク・コミック=コン(コンヴェンション、New York Comic-Con)という、アメリカ東海岸最大のポップ・カルチャー・イヴェントでのことだったんだけどね。

満席となった会場で僕のSEMW(サムシング・エルス)スタッフは本当に一所懸命働いてくれたよ。すぐれた作曲家パネリスト達が僕の気分を高揚させてくれただけでなく、ニュー・ヨーク・コミック=コンの献身的な後援者(パトロン)達から発せられる多大なるハピネスの雰囲気がそこにはあったよ。

 


これが、彼が動く(=中に人が入っている)ことを君にも分かってもらえるだろう別の一枚


才能あふれるヴィディオ・ゲイム(・ミュージックの)作曲家たち、ニュー・ヨーク・コミック=コンのSumthing Else Music Works ブースにて


会場は満席 – グラミー賞に僕ら(ヴィディオ音楽)の部門が欲しいね、みんな!


この人物の細部へのこだわりは驚異的


彼女、急ぎの約束はあったかなぁ


マース・ヴェイダー(訳注:「Daddy→Darth」として「Mommy→Marth」なのか?)


NYコミック=コンのコスプレイヤーたち


ヘイロー(Halo)のマスター・チーフとポーズをきめる人物、サムシングのブースにて(訳注:人気ゲイム『ヘイロー』のサントラ盤はサムシングから発売されている)


サムシングのブースにいる人々、NYコミック=コンにて


"Aw Freak Out! Le Freak C'est Chic"(「おしゃれフリーク」冒頭)を歌いながら僕に寄ってきたソロモン・グランディ(有名なゾンビ・キャラクター)


百聞は一見にしかず


ニュー・ヨーク・コミック=コンのパトロン達


江南スタイルの人物(訳注:中国と日本[Sumo Style]を混同しているのだろうか?)

 


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I Guess We All F***'d Up?

October 6, 2012


僕は体調が最悪という状態を脱しつつある。不満を言っているのではない – 数日前に緊急治療室を出たところだ

僕は体調が最悪という状態を脱しつつあるところだ、でも不満を言っているんじゃないよ。(文句をいう)代わりに自分に問いただしているのさ、「僕よりもいったい誰がうまく(最悪と)つきあっている?」とね。僕は数えられないほどの回数、死から逃れてきた。そして僕は今も(又もや)快方に向かっており、これまでにもまして仕事をしているよ。

Q: 僕の仕事は何だろう? A: ミーディア(メディア)の種類にかかわらずポップ・カルチャーのアーティスティックな範囲の拡大を手伝うこと。

僕の仕事はサーヴィス業 - クリエイティヴで楽しく、アーティスティックなものだけどね。音楽を創る者として、僕は(手掛けた)アーティストが彼らのアーティスティックな範囲を拡大させるのを手伝うことを常に要求されているんだ。言い換えると、僕の仕事はポップを作ることなんだ。ポピュラー作品ともヒット作ともチャート一位獲得作品といってもいい。いつも上手くいくわけじゃない、何故ってアートが人の心に宿ってからこっち、それは精神的に(もともと)可能じゃないから – でも僕はやれるだけのことはしているんだ。

昨日、僕は僕の人生を映画や舞台、劇画などにする事への高まりつつある関心に対するミーティングでLAに居たんだ。それとは別のプロジェクトの撮影を少しやってからホテルに戻ると、僕宛ての山ほどの E-メイルが届いていたよ。それは僕のバンド CHICがロックン・ロール・ホール・オヴ・フェイム(ロックの殿堂)入り候補になった事を祝してのものだった。これは僕を微笑ませたけれど、それは君達が思っているような理由ではないんだよね。

CHICのキャリアは「Disco Demolition Night(ディスコ破壊ナイト)」と「Disco Sucks(ディスコなんて最低)」という反動によりあっという間に劇的な幕切れを迎えた。一連のゴールド、プラチナム、マルチ・プラチナムに輝いたレコードの後、「Disco Demo Night」が起きた時である1979年の夏以降、CHICは二度と新たなヒットを出せなかった。

CHICの最後のヒット曲は「グッド・タイムズ」。1979年に発売された。何人かはそれが「ヒップ・ホップの生みの親」であり、「ラッパーズ・ディライト」を生んだとも、クイーンのスマッシュ・ヒット「Another One Bites the Dust(地獄に道づれ)」などの大成功を生んだ曲だったと主張するだろう。でも CHICは決して新たなヒットを出せなかったんだ。僕と、CHICを一緒に結成したバナード・エドワーズは自分たちの仕事を続けていたにも関わらずね(これまでの説明[以前のブログ記事のことか?]を参照のこと)。

ゆうべ、誰かが僕に(携帯)メイルをくれたんだ、「今度は CHICの年(殿堂入りする年)になるよ、だって一般投票も行われることになったからね!」って。「本当?」僕はその経緯をチェックしなけりゃと思ったんだ。R&Rホール・オヴ・フェイムのウェブサイトを訪れてその管理方法(投票サイト)を確認したよ。CHICのリスト最初の曲は、1980年に発売された「Rebels Are We(反逆者たち)」なんだ。この曲は僕のキャリアで(セールス的に)コケた長い時期の最初を飾った曲なんだぜ。僕の実の母がこの曲を知っているかさえ定かではないのに、今回「一般投票をする人たち」が知っているとは思えないね。

今回が七回目の候補入りなんだ。当然だが、CHICファンではない一団は頭をかきむしっているだろうし、僕もそれは分かる気がする。もし、何故 CHICがノミネイトされているかを、或いは単にポップ・カルチャーを広めようとしているということを投票者に気付かせるという指示のもとにある人物がこのリストを管理していたなら、CHICの最も知られた録音(レコード)は全て1980年より前にするべきじゃないかなあ? 「エヴリバディ・ダンス」や、シングルB面だけどバンド自身よりもよく知られた「CHIC Cheer(陽気な仲間)」みたいなね(訳注:バンド名が曲名に含まれている事を指す)。

自分がまだ生きているという事実の他に、僕の人生で最高の事のひとつは、僕がこの「音楽を作る」という仕事を愛していることなんだ。CHICが殿堂入りをするかどうかとは関係なく、僕が一緒に仕事をしてきた数多くのアーティスト達は殿堂入りするだろう。

最初の CHIC Organization の男性メンバーは、(僕以外は)既にこの世に居ないんだ、参ったね。彼らは最高のユーモアのセンスを持っていたから、このコメディみたいな皮肉にウケているだろうね。僕らはあの当時の特徴的な二つのバンドの影響下で CHICを組んだんだ:ロクスィ(ロキシー)・ミュージックの洗練さとキッスの匿名性の事さ(キッスがメイキャップを取り、ジーン・シモンズが有名なTVスターになる前の話だよ)。(なんと)どちらも殿堂入りをしていないんだ。ひどい話だと思わないかい?(I Guess We All F***’d Up?)

 


撮影の合間で楽しくやっているところ


僕の仕事は、ミーディア(の種類)にかかわらず、ポップ・カルチャーのアーティスティックな範囲の拡大を手伝うこと


ザ・ヴォーン・ブラザーズと僕 - 僕はいつも一緒にやるアーティストの可能性を広げるように常に要求される


僕の仕事はポップを作ること – いつも上手くいく訳ではないが、やれるだけのことはしている


CHICのキャリアは「Disco Demolition Night」と「Disco Sucks」という反動によりあっという間に劇的な幕切れを迎えた


一連のゴールド、プラチナム、マルチ・プラチナムに輝くレコードの後、「Disco Demo Night」が起きた時である1979年の夏以降、CHICは二度と新たなヒットを出せなかった


バナード・エドワーズと僕、1977年にアトランティック・レコーズと CHICが契約したとき


僕の人生(自伝「Le Freak」表紙)


CHIC最後のヒット「グッド・タイムズ」は1979年に発売された


CHICの作曲者(B. Edwards, N. Rodgers)がクレディットされた「ラッパーズ・ディライト」のシングル


クイーンの「Another One Bites the Dust(地獄に道づれ)」は音楽的に「グッド・タイムズ」と密接だが僕らのマスター(音源)をサンプリングはしなかった(訳注:なので作曲者にエドワーズ&ロジャーズのクレディットは無い)


デイヴィッド・ボウイーのアルバム『レッツ・ダンス』のプロデュース後、僕の一連の(セールス面での)低迷期は終わりを告げ、バナード・エドワーズと僕は双方ともすぐに一連の成功を手にした


アリスン・モイエ、ジョニー・マーそして僕、数ヶ月前に共演しているところ – 僕は自分の「音楽を作る」仕事を愛している


初期の The CHIC Organization の全員 - 悲しいことに、五人の男性メンバーの中で生きているのは僕だけだ


ロクスィ・ミュージックは初期CHICのロール・モデルだった – 彼らはR&Rの殿堂入りを果たしていない


キッスは初期CHICのロール・モデルだった – 彼らはR&Rの殿堂入りを果たしていない

 


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Something to Be Afraid Of

October 2, 2012


Clinton Global Initiativeでのミーティングに向かう道すがら、Gibson の広告で覆われたバスを追い抜く - 先週は毎日、僕はいつもの膨大な仕事量に加えて更なる用事があった

先週は毎日、僕はいつもの膨大な仕事量に加えて更なる用事があったんだ。週の半ばに、背中を痛めてはいないのに、僕は突然に耐えがたい程の痛みを背中の真ん中あたりに感じたんだけど、それは定期的に受けている癌の術後検診とぴったり重なるタイミングだったので、僕は「何て便利なんだ(丁度いいんだ)」と思ったよ。僕はまる一日を、通常の一連のテスト(検診)に加えて、背中の問題に対処する二、三のテストに費やしたんだ。

いつもの血圧検査の後で僕のドクターは言ったよ、「127の70、良いね」とね。普通、僕は110の70なんだけど、背中の痛みのせいでナーヴァスになっていたから、高い方の数値がいつもより上だとは思っていたんだ。僕は基本的には健康証明書を持って家へ戻ったけれど、ドクターは膀胱か尿路の感染症にかかっているかもしれないと考えて、僕に抗生物質を処方したんだ。

その夜遅くに、背中の痛みは悪くなって、体温と心拍数がとても上がったんだ。僕は話す事も、筋肉をコントロールすることもほとんどできなかった。旧友ルーサー・ヴァンドロスの話(彼に起きたこと)を僕は知っているから、脳卒中になりかけているかも知れないって思った。それで911(救急)に電話をした。僕におきていた兆候は(気のせいではなく)現実に起きていて、僕の心は僕を(「そぉらみろ」とばかりに)からかっていたんだけど怖くなったよ。

時には、最高の恐怖を引き起こすもの(原因)は何が悪いかを知らないことだよね。僕は救急の職員が来るのを待ったよ。僕はちょうど、比較的きれいな健康証明書を貰ったところで、彼らに僕が新たに飲み始めた薬を見せたかった。

僕が抱いた最初の恐怖は無理もないもの – でも気絶しないでいるのが大変になるにつれ、僕はおそらく起こるであろうことについて考え始めたんだ。はたして救急車は到着、僕はできるだけはっきりと状況を説明した。(そして)僕が気を取り直すと気分もゆっくりと上向いたんだ。彼らは五時間にわたる試練が待っていた病院へと僕を連れて行ってくれた。病院を出る頃には、僕の心は穏やかだった。僕はこれが、最初の癌手術以降感染しやすくなっている更なる別の感染症なんだと結論づけたんだ。

僕はまだいくらかナーヴァスだったけれど恐れなかったよ。僕はまだ知らぬ恐怖に対する最高の防御は「知らない」という事実を受け入れることだと思っているんだ。僕のモットーはこうさ:恐れるな、それが恐れるに足る何か(Something to Be Afraid Of)であると完全に確信するまでは。

 


僕が定期的に受けている癌の術後検診


僕はまる一日を、通常の一連のテスト(検診)に費やした


このイカした奴らが背中(の痛み)の問題に対処する二、三のテストを僕にした


僕の旧友ルーサー・ヴァンドロスは(心臓)発作で亡くなった


救急車が到着し、僕は出来るだけはっきりと聖ルークズの職員に状況を説明した


彼らは五時間にわたる試練が待っていた病院と僕を連れて行ってくれた


NY市の僕のアパートで静かに過ごす、僕の心は穏やかだった


恐れるな、それが恐れるに足る何か(Something to Be Afraid Of)であると完全に確信するまでは


僕は前向きでい続け、気分を前より良くするようにしている

 


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I'm Still Freaking Out

October 11, 2012 - Update by: @NileRodgers
On my birthday a couple weeks ago I got the most amazing surprise. A whole slew of my friends got together and recorded something I'll never forget - a two hour plus video birthday card. I'd promised to post the whole thing but I got sick, then had to go away. I'm still sick but I'm back home. Here's The Entire Birthday Video.
September 23, 2012


Part 1 | Part 2 | Part 3 | FULL VIDEO

六十歳の誕生日を、僕は古い友達の結婚式に出席する為にロンドンへ向かっていた機内で迎えた。僕の(六十歳という)記念碑的な誕生日に、誰も機上の僕と出会えなかったので、何人かの近しい友人たちがこんな大きな作業に乗ってくれたんだ。(訳註:embarkは「計画に乗る」と「飛行機に搭乗する」を掛けている)

彼らは世界中から「ハッピー・バースデイ」を送ってきてくれたよ。ポップ・スターからだけでなく、僕の人生に於ける全てのエリアの友人たちだ – twitterやfacebookでの友人も。

動画のクリップはまだ届いている途中で、僕のクルーがそれをひとまとめにした長さのヴィディオにしている所さ。このブログでは、およそ一年半前に進行性の癌になってからの僕の日々のアドヴェンチャーを取り上げているのが常だけれど、- かといって僕の人生に於ける愛と前向きな気持ちは双方向(僕からみんなへ、そしてみんなから僕へも)に流れているから、そのいくつかをシェアしたいんだ。

願わくば、僕はこの一連の動画(のもたらしてくれる幸せ)を覆してしまうような健康問題がこの先もなければと思う。僕は出来るだけたくさんの動画を流すよ。何故って彼らはハートウォーミングでファニー、そしてエンタテイニングだ(面白い)からね。僕は彼らと彼らのペット達に心から感謝するよ。僕は今もなおフリーク・アウト中さ(I’m Still Freaking Out)。

 


Bryan Ferry


Steve Vai


Daft Punk


John Taylor (Duran Duran)


Dimitri from Paris


The B-52's


Paul Simon


Quincy Jones


Steven Van Zandt


XL Video


Narada Michael Walden


Chris Cornell


Q-Tip


Brett Ratner


Adam Lambert


Sinbad


Jerry Greenberg


Slash


Chris Matthews


Jody Watley


Steve Winwood


Me & Mom


Simon Le Bon


Alison Moyet


Taylor Dayne


Montel Williams


Johnny Marr


Sting


André Leon Talley


Deepak Chopra

 


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Happy to be Alive on My Birthday

September 19, 2012


エレクトリック・レイディ・スタジオ前の僕、Paul McClean とリッチ・ヒルトンがガラスに映りこんでいるのはわかるよね

CHICのファースト・シングルは「ダンス・ダンス・ダンス」といって – グリーニッチ・ヴィレッジの西8番通りに在るエレクトリック・レイディ・スタジオで録られたんだ。ジミ・ヘンドリクスが建てたスタジオだよ。このスタジオは僕が育った地域の中心だった。子供の頃、エレクトリック・レイディ(の場所)はジェネレイションというナイトクラブだったんだ。

十六歳の頃、僕は法的に飲酒が認められる十八歳ではなかったけれどジェネレイションに行ったもんさ。ヴェトナム戦争中のアメリカの徴兵制のせいもあり、僕らに対する主な身分証明(年齢確認)の方法は徴兵カードによるものだったんだけど、それはシンプルな作りだったから高校の写真店で簡単に偽造できたんだよね。だから僕の友達はみんなそれを持っていたよ。多くの十六歳にみえる十八歳そしてその逆の連中もいたから、僕はどのクラブでも一度も追い出されなかったよ。僕は痩せてて若くみえたけど徴兵カードを持っていたからね。

ジェネレイションがエレクトリック・レイディになってから、僕はそこで多くのアーティストと仕事をしたよ:INXS、ホール&オーツ、CHIC、メイシー・グレイ、ディアンジェロ、フェミ・クティ、ロイ・ハーグローヴ、ダフト・パンクそれから音楽ガイド(本・資料)無しでは数えられない程の面々。

(という風に、)僕は今日、僕がプロのミュージシャンになってからの人、場所そしてものごとに関する長文のブログを書くことになると思っていた。何故なら僕は BBCラジオの Paul McClean とニュー・ヨークじゅうを歩いたからなんだ。でも書きすすめているうちに今日は僕の誕生日だという事に気付いたんだよ。

僕は十六歳(シックスティーン)の頃の話から今回のブログを始めた。そして今日、僕は六十歳(シックスティ)だ。人生を通して得たものに対して、正直に、僕は誕生日を生きて元気に迎えている事が本当にハッピー(Happy to be Alive on My Birthday)だよ。

 


僕らのファースト・シングル「ダンス・ダンス・ダンス」はエレクトリック・レイディ・スタジオで録音された


この、「折り畳まれると」クレジット・カードより小さくてちゃちな紙の文書が徴兵カードと呼ばれていて、偽造はたやすかった


フェラの曲をクウェストラヴ、ディアンジェロそしてフェミ・クティ(訳注:フェラの息子)と練習中、エレクトリック・レイディのラウンジにて


僕はポールと写真を撮ってからエレクトリック・レイディの中に迎えた(訳注:「撮る」「迎える」はどちらも “take”)


僕はポールにエレクトリック・レイディのレコーディングの逸話を山ほど話した


僕らがいた間、完全に極秘の中、エレクトリック・レイディで誰かが録音中だった – 僕はそれが誰かおおよそ分かっていたけどね


僕は(今日が)自分の誕生日だと気付いた - そこで誕生日関連の写真を探してみた - 去年、僕は初めてアイスクリームのバースデイ・ケーキを貰った


僕の誕生日のCHIC再結成、ポール・シャファー、ルーシ・マーティン、僕、アルファ・アンダースン、バナード・エドワーズそしてフォーンズィ・ソーントン(訳注:1989年の誕生パーティで急に行ったという久々のライヴ。これが切っ掛けとなり現在まで続く再結成が実現。ドラマーはアントン・フィグ)


(男性左から)ライオネル・リッチー、Esai Morales、ナイル、Russell Wong、Dustin Nguyen と、愛情をこめて「ナイリーズ(ナイルの)・エンジェルズ」と呼ばれた女の子たち、LAでの僕の誕生パーティ会場の外で(訳注:ライオネル、ナイル以外の男性三人はいずれも俳優/ナイリーズ・エンジェルズはTV「チャーリーズ・エンジェル」に引っ掛けて)


OK、認めよう、僕は今日、本当に高速でドライヴした。何故なら僕は誕生日を生きて元気に迎えている事が本当にハッピーだから

 


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We'd Make Music History Together

September 17, 2012


ザ・ロクシー・クラブが在った辺りへ向かう - 僕がマドンナと出会った場所

空模様は BBCラジオの Paul McClean と「惑星Cを歩く」のにパーフェクトだよ。雲も無く亜熱帯の様な暖かさ。普通は、僕は行き先を決めずにランダムに歩くんだ – だけど僕らは僕の自伝 “Le Freak” に登場する特定の場所をなぞっていった。僕はずっと本当にクレイジーな人生を過ごしてきた。僕がまだ生きているなんて奇跡だね。

僕は五歳前後で自意識に目覚めた。一番最初の記憶はロウワー・マンハッタンでのものだ。僕の両親は揃ってヘロイン依存症で家も常に転々としていたんだ。短期間、僕らはグリニッチ・ストリートの780番地に住んでいた。僕はあの伝説的なジャズ・ミュージシャン、セロニアス・モンクが僕の母のファッショナブルな毛皮のコートの一着を買いにやって来たのを覚えているよ。

僕はグリーニッチ・ヴィレッジやチャイナタウン、ロウワー・イースト・サイドに住んでいたことがあって、十六歳の時には地下鉄(の構内)で寝泊まりしていたよ。(その前は)カブ・スカウトやボーイ・スカウト、ボーイ・クラブ・オヴ・アメリカのメンバーだった(訳注:模範的なアメリカ少年だった)んだけど、ブラック・パンサー党ハーレム支部のロウワー・マンハッタン・セクションのサブリーダーにもなった。我々は西21番通りに在ったセクションのリーダーの両親のファッショナブルな別邸(タウンハウス)を本部にしていたんだ。

隣に住んでいたのはヒッチコックの『サイコ』で有名な俳優アンソニー・パーキンズと当時の彼の婚約者ベリー・ベレンスンで、後に彼女は僕のフォトグラファーになった。(でも)2001年の九月十一日、ワールド・トレイド・センターに突っ込んだ一機目の飛行機に乗り合わせて悲劇的な最期を迎えたんだ。

そんな(西)21番通りの別邸から数ブロックも行かない場所で、僕はやがてデイヴィッド・ボウイーやマドンナと初めて会うことになるんだ – ボウイーとは25番通りのコンティネンタルというナイトクラブで、そしてマドンナとは18番通りのザ・ロクシーというクラブで。僕らは一緒にミュージック・ヒストリーを作ったんだよ(We'd Make Music History Together)。(ウォーキングは更に続く)

 


セロニアス・モンク、タイム誌の表紙


散歩中、僕らはこのラヴリーな女性 Alexa と出会った。彼女は The Lower Eastside Girls Club はまだ同じ所に在ると教えてくれた


僕が所属していたブラック・パンサー党ハーレム支部のロウワー・マンハッタン・セクション(本部)は(西)21番通りのタウンハウスに在った


在りし日のベリー・ベレンスンとトニー(アンソニー)・パーキンズ


ナイル・ロジャーズ、ベリー・ベレンスン撮影


ナイル・ロジャーズ制作の「モダーン・ラヴ」を歌うデイヴィッド・ボウイー


マドンナのアルバム『ライク・ア・ヴァージン』は彼女最大の売り上げを記録

 


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